小学六年生のときから、ヘビメタ騒音で、毎日がズタボロだった。これ、ほんとうに、死ぬか生きるかの問題なのである。ものすごく、くるしい時間なのである。ものすごく、くるしい時間がずっと続いた。鳴っている間続いたし、鳴り終わったあとも続いた。ほかの人は「鳴り終わったあとも続く」ということがわからない。鳴り終わったら、おしまいだと思う。鳴り終わったら、その瞬間に、騒音の影響がなくなると思っている。けど、それは、ちがう。きちがい家族による騒音の場合、鳴り終わっても、ずっと影響が残る。一日のなかでもそうだし、一生のなかでもそうだ。
基本、小学六年生のときから、ヘビメタ騒音で、毎日がズタボロだと、基本的な体力や睡眠力がなくなる。そして、満足な学歴や普通の職歴がなくなる。これは、必然なんだよ。おなじ状況なら、だれもがそうなるんだよ。けど、やられてないやつは「自分なら平気だ」「自分ならどうにかできる」「自分なら、そのきちがい兄貴をしずかにさせることができる」と思っている。だから、「自分なら平気だ」という前提でものを言う。この前提は、語られるときもあるし、語られないときもある。あまりにも、ごく自然にそう思い込んでいるので、自分がそう思っているという自覚がない場合もある。
ともかく、十数年も続くと、通勤して働けない状態になる。通学できない状態になる。これが、「がんばった」結果なのだ。死にものぐるいの努力の結果なのだ。これ、そうするしかないから、そうしたのだ。これも、きちがい野郎だと……あるいは、想像力がない人だと、あとだしで、「努力の方向がまちがっている」と言う。言ったりする。これがまた、腹がたつポイントなんだよな。あんなことをやられて、普通の状態でいられるわけがないだろ。前日、ヘビメタ騒音にさらされたけど、学校に行くということが、どれだけむずかしいことか、ぜんぜんわかってない。前日、ヘビメタ騒音にさらされなければ、簡単にできることなのだけど、前日、ヘビメタ騒音にさらされると、できないことになるのだ。死にものぐるいの努力なしでは、できないことになってしまう。一日だけならいい。けど、数千日続いたらどうなるか? 数千日、そういう状態で、俺は学校に通ったんだぞ。どれだけの努力が必要だったか、わからないのか? わからないで、クソを言うな。