燃え尽きた人に対しては、たとえ、無職セミリタイア者でも、偏見を持っているということがわかってしまった。まあ、その人が無職セミリタイア者の代表じゃないから、その人が偏見を持っているということなのだけど……。無職セミリタイア者のなかで、どれだけの人が燃え尽きた人なのだろうかと考えると、燃え尽きた人は少ないのではないかと思う。ここでも少数派なのだ。
そりゃ、仕事はいやだけど、生活すること自体は楽しいというやつらが、セミリタイアしているわけだから、そっちのほうが、人数は多いよなぁ。無職セミリタイア者という少数派のなかでも、燃え尽きてどうにもならないタイプは少数派だ。
あるいは、燃え尽きた人は、声をあげない。声をあげる気力もないという状態で、うずくまっていると思う。ブログで情報発信をしている人は、元気なタイプが多いのだろうと思う。俺は、執念で「書くこと」だけは続けているけど……。
しかし、無職セミリタイア者で元気な人たちも、仕事に関しては、「元気ではない」。仕事には対しては、ネガティブな意見を持っている。けど、生活全体に対しては……あるいは、人生全体に対してはポジティブな意見を持っている。なんでなら、浸食された部分が、「仕事」に限定されているからだ。浸食された部分の「大きさの問題」なんだよな。
セミリタイア者のなかでも、やっぱり、燃え尽きタイプと燃え尽きてないタイプ(元気タイプ)の差があるなぁ。
まあ、これ、理解しろというのが無理なんだよな。
問題なのは、ライフハック的な浅知恵だ。ライフハックは、問題解決とか言っているけど、問題解決にならない。だから、仕事に関しては脳内変換なんてできないやつが、生活に関しては、「こんなふうに脳内変換すればいいんだ」ということを言い出す。
これは、これで問題なんだけど、なんと言っても少数派のなかの少数派だから、問題だと理解できる人間が少ない。少数派のなかの多数派は、「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている。「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている人は、「だれでも」脳内変換が可能だと思っている。自分だって、仕事に関しては脳内変換して楽しむなんてことはできなかったくせに……。
いままで、言霊や認知療法と「たたかってきた」けど、ライフハック的な助言やライフハック的な浅知恵は、燃え尽きたタイプを「うちのめす」のである。ほんとうにしんどい問題を抱えているタイプを、ぶちのめす。
「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」という意見には、じつは、脳内変換は一〇〇%可能だという「前提」が含まれている。なので、脳内変換ができないということは、認めていない。
しかし、脳内変換ができない人はいる。なので、話がくいちがっていくのである。
「脳内変換が可能だ」と「脳内変換が可能だ」と言っている人が言う場合、じつは、「だれでも」という補足事項が含まれている。しかし、この条件に関しては、無自覚なのである。ようするに、言霊主義者のように、場合によって使い分けている。
脳内変換ができない人に脳内変換すればいいと言ってもむだだ。むだなんだけど、「脳内変換ができない」ということは、認めてないので、言ってしまうのである。もちろん、ほんとうは、自分自身だって「脳内変換」できない分野はあるのだけど、それに関しては、無自覚なのである。あるいは、人に言う場合と、自分のことの考える場合で、「気分」がちがってしまっている。「気分」の違いが「補足事項」の有無にあらわれる。
「できない」から、こまっている人に、「(できるから)すればいい」と言ってもむだなのに、むだだと思ってない。「できないからこまっている人」はいないと思っているから、「やらないからだめなんだ」というような感情が沸き上がる。
こういう場合は、基本的に「努力」の問題になる。「根性」の問題になる。「脳内変換すればいい」と「つまらないと言っている人に」助言する場合、「脳内変換すればいい」と言っている人は、『つまらないと言っている人も脳内変換することができる』と思って言っているので、「つまらないと言っている人」が「できない」ということを言い出すと、『それは、努力しないからだ』『努力がたりないからだ』と思ってしまう。
ほんとうに「できない」場合を、根底では認めていない。「だれでもできる」と思って発言しているので、できないとしたら、「努力しないから、できないんだ」「やろうとしないから、できないんだ」と思ってしまう。
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手短に言うと、俺だって、ヘビメタ騒音にやられてなかったら、浅知恵をふりまわしていたと思う。きちがいおやじ……毒親にやられただけであれば、浅知恵ライフハックをふりまわしていたと思う。 毒親にやられて、なおかつ貧乏家出身なのに、努力で、いまの地位を勝ち得たという気分になっていたと思う。「俺が、どれだけ努力してきたか」と言っていたと思う。毒親・貧乏という二重苦(ハンディ)を自分の努力と才能で跳ね返したというプライドを持っていたと思う。