もう、これは、前に書いたので、単純にまとめておくだけにする。
自己責任論には三種類の自己責任論がある。
ひとつ目は、自己責任の範囲を自分自身に限定したものだ。『すべては自己責任』と言っている場合は、もちろん、どんなことであれ、自分の身に生じたことは、自分の責任だということになる。
これを、(1)対象を自分に限った自己責任ということにしよう。
ふたつ目は、自己責任の範囲を、他者に限定したものだ。『すべて自己責任』と言っている場合は、もちろん、どんなことであれ、その他者の責任だというとになる。その他者の自己責任なのである。
これを、(2)他者に限った自己責任論ということにしよう。
みっつ目は、自己責任の範囲を、自分と他者の両方に拡張したものだ。しかし、これは、(2)の自己責任論者が言い逃れのために用意しているような自己責任論なので、実質的には、(2)の自己責任論とおなじだ。なので、基本的には(1)と(2)の違いについて説明することにする。
(1)の自己責任論者の自己責任は、いちおう、すじが通っている。通りすぎていると言っても過言ではない。
もしかりに、AさんとBさんがいたとする。Aさんが(1)の自己責任論者だとする。Bさんは、いろいろなことに不満を抱えている人だとする。
ある日、Aさんが、自分の会社に行くためにいつも通る道を通っていたとする。そのとき、Bさんがナイフを持ってAさんに切りかかったとする。このような場合、普通は、Bさんの行為によって、Aさんが傷ついたと解釈するだろう。
けど、Aさんはちがう。Aさんは、Bさんの責任を追及せず、自分の責任だと思うのである。これが、本来の意味での「自己責任」だ。その時間にその通りを歩いていた自分に責任がある。Bさんの行動に気がつかずに、刺されてしまった自分に責任がある……とAさんは考えるのだ。
自分の身に生じたことは、すべて、自己責任なので、自己責任論者のAさんはそのように考えるのである。
(2)の自己責任論者の自己責任は、すじが通ってない。
かりに、(2)の自己責任論者をCさんとする。その場合、Cさんは、刺したほうのBさんの責任は追及せず、刺されたAさんの責任を追及するのである。
Cさんは、まったく自分に関係がない、Aさんの責任を追及する。この感覚はかなりおかしいと私は思うが、いまでは、(2)の自己責任論がまかり通っているので、Cさんの「もののみかた」はおかしくないと思う人が多数いると思われる。
ちょっと話をかえて、CさんがBさんに刺されたとする。この場合、Cさんは、自分がBさんに刺されたのは自己責任だと思うことができるだろうか?
おそらく、Cさんは、自分を刺したBさんの責任を追及するのではないだろうか。
まあ、それは、実際にCさんが刺されてみないとわからないけど、まったく無関係なAさんの責任を追及するという態度から考えて、自分に被害を及ぼしたBさんの責任を追及しないとは考えにくい。
自分になんの被害も及ぼしてないAさんの責任を追及する人が、自分に被害を及ぼすことになったBさんの責任を追及しないというのは、なにか不自然だと思われるのである。
まあ、刺されたとたんに、「このやろう、ふざけんなぁ」と思うだろう……Cさんは。Cさんはそういう「性格」なので、刺されたとき「すべては、自己責任だ」と思わないと思う。
Cさんは、Aさんの責任を追及しているという意味で、過剰に人のせいにしがちな人なのである。Cさんは、他人をせめやすい人なのである。
Aさんに対して自己責任だと言うのは、ある種、いじめの延長なのではないかと思う。Cさんは、自己責任論というかくれみのにかくれて、Aさんを攻撃してやりたいのである。Cさんは、自分では気がつかないかもしれないけど、人をいじめてよろこぶような性格傾向があると思っていい。
もし、Cさんが会社にいるなら、上の者にはごまをすって、下の者には圧力をかける性格だろうと思う。ようするに、強いものにはへつらい、弱いものには、威張る性格なのではないかと思う。
Cさんは、(1)のタイプの自己責任論者とは違って、人をせめることに快感を感じるタイプだと思う。Cさんのような人は他人にケチをつけがちだと思う。そういう性格傾向が、実際には自分に関係がないAさんをせめるということに、あらわれている。
実際には自分に関係がないAさんをせめるのは、「弱っている人がいたら」攻撃してやろうと思っている性格のあらわれだ。「弱っている人がいたら」攻撃してやろうと思っている人が、本来の意味での自己責任論者のように謙虚な人だとは思えない。
「すべては自己責任」という言葉が同じでも、その言葉が向けられる対象が、自分なのか? 他人なのか? で言っていること全体が真逆になってしまうのである。
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