2026年6月9日火曜日

●(1)対(1)と(多)対(1)■社会※2026/06/05 9:05

 (1)対(1)と(多)対(1)について、書いておこう。


たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れただけで、努力→←成功(努力する人は成功者だ・成功者は、努力する人だ)というパターンと非・努力→←不成功(努力しない人は不成功者だ・不成功者は努力しない人だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

努力→←成功ということが一つのペアをつくっているし、非・努力→←不成功ということが、ひとつのペアをつくっている。

この場合、(1)対(1)ということになる。

努力と成功がペアをつくっており、非・努力と不成功がペアをつくっているのである。

しかし、まえにも説明したように、努力だけが成功の要素ではないのだ。

さまざまな条件や、才能が、成功するかどうかを決めている場合がある。努力をしなくても、成功する人は、成功する。才能があり、さまざまな条件に恵まれていたら、努力をしなくても、成功する。

だから、ほんとうは、(多)対(1)のパターンにならなければならないのだ。

才能だけが成功するかどうかを決めると考えている人は、才能と成功のあいだに一対のパターンをつくりだしていて、そのパターンにあった世界観をもっている。

その世界観をもっている人にとっては、成功していない人は、才能がない人なのである。

そういう、基準で他人について考えてしまう。

努力ではなくて、才能について考えてみよう。 

「才能があれば成功する」という言葉を受け入れただけで、才能→←成功(才能がある人は成功者だ・成功者は、才能がある人だ)というパターンと非・才能→←不成功(才能がない人は、不成功者だ・不成功者は才能がない人だ)というパターンが、「才能があれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

いろいろと問題があるのだけど、特に問題があるのは(不成功者は才能がない人だ)というパターンが頭のなかにできてしまうことだ。

そうすると、人を見るとき、そのパターンの内容に従って人を見るようになってしまうのである。

ようするに、「見なし方の問題」が発生する。「才能があれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

*     *     *

「努力をすれば成功する」ということに関しても、おなじことが言える。「努力すれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

成功していない人を努力をしない人だ(努力をしてこなかった人だ)と見なしてしまうのである。

一度、そういうふうに見なしてしまうと、その人(本人)にとって、成功をしていない他人は、「実際に、努力をしてこなかった人だ」ということになってしまうのである。

その人の頭のなかではそうなる。

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ほんとうは、「努力をする」ということは、一意には決まらない。そして、「成功する」ということも、一意には決まらない。「才能がある」ということも、一意には決まらない。

しかし、そういうことに注意を向ける人はまれだ。以降、とりあえず、かりそめの話なのだけど、「努力をする」ということも「成功する」ということも、「才能がある」ということも、一意に決まるという前提で話をする。ほんとうは、ちがう。

だから、(1)対(1)とか、(多)対(1)ということを言ったって、それは、一意に決まらないのだから、意味がないということになる。

ほんとうは、(多)対(1)なのだけど、(1)対(1)の関係を言うことによって、ほかの要素を無視するように、誘導するのだ。

そして、逆の関係を暗示する。逆の関係が、言っている人に優越感を与えるようになっているのだ。

たとえば、「努力をすれば成功する」と言っているときは、『自分は努力をしたから、成功した』という気持ちがあるのである。そして、自分は説教をする資格があるという気持ちになっているのである。

『成功』のゴールをずらせば、他人から見て、どれだけ成功していないように見える人でも、人に説教をしているときは、本人は『自分は成功した』と思っているのである。

相手は、成功していない人間なので、努力をしてこなかった人間だということになる。だから、説教をしてもいいのである。

そして、各種サブルーチンに入っていく。「こころがまえができていないから、努力をしても成功しないのだ」ということを語りだすのだ。

こういうしくみが最初から成り立っている。

相対的に条件が悪い人を苦しめるようになっている。相対的に条件がいい人が、自分は成功したつもりで、相手にダメ出しをするようになっている。

たとえば、「努力をすれば成功する」というい言い方は、説教をする人に、そういう権利を与えてしまう言い方なのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。