(1)対(1)と(多)対(1)について、書いておこう。
たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れただけで、努力→←成功(努力する人は成功者だ・成功者は、努力する人だ)というパターンと非・努力→←不成功(努力しない人は不成功者だ・不成功者は努力しない人だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。
努力→←成功ということが一つのペアをつくっているし、非・努力→←不成功ということが、ひとつのペアをつくっている。
この場合、(1)対(1)ということになる。
努力と成功がペアをつくっており、非・努力と不成功がペアをつくっているのである。
しかし、まえにも説明したように、努力だけが成功の要素ではないのだ。
さまざまな条件や、才能が、成功するかどうかを決めている場合がある。努力をしなくても、成功する人は、成功する。才能があり、さまざまな条件に恵まれていたら、努力をしなくても、成功する。
だから、ほんとうは、(多)対(1)のパターンにならなければならないのだ。
才能だけが成功するかどうかを決めると考えている人は、才能と成功のあいだに一対のパターンをつくりだしていて、そのパターンにあった世界観をもっている。
その世界観をもっている人にとっては、成功していない人は、才能がない人なのである。
そういう、基準で他人について考えてしまう。
努力ではなくて、才能について考えてみよう。
「才能があれば成功する」という言葉を受け入れただけで、才能→←成功(才能がある人は成功者だ・成功者は、才能がある人だ)というパターンと非・才能→←不成功(才能がない人は、不成功者だ・不成功者は才能がない人だ)というパターンが、「才能があれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。
いろいろと問題があるのだけど、特に問題があるのは(不成功者は才能がない人だ)というパターンが頭のなかにできてしまうことだ。
そうすると、人を見るとき、そのパターンの内容に従って人を見るようになってしまうのである。
ようするに、「見なし方の問題」が発生する。「才能があれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。
* * *
「努力をすれば成功する」ということに関しても、おなじことが言える。「努力すれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。
成功していない人を努力をしない人だ(努力をしてこなかった人だ)と見なしてしまうのである。
一度、そういうふうに見なしてしまうと、その人(本人)にとって、成功をしていない他人は、「実際に、努力をしてこなかった人だ」ということになってしまうのである。
その人の頭のなかではそうなる。
* * *
ほんとうは、「努力をする」ということは、一意には決まらない。そして、「成功する」ということも、一意には決まらない。「才能がある」ということも、一意には決まらない。
しかし、そういうことに注意を向ける人はまれだ。以降、とりあえず、かりそめの話なのだけど、「努力をする」ということも「成功する」ということも、「才能がある」ということも、一意に決まるという前提で話をする。ほんとうは、ちがう。
だから、(1)対(1)とか、(多)対(1)ということを言ったって、それは、一意に決まらないのだから、意味がないということになる。
ほんとうは、(多)対(1)なのだけど、(1)対(1)の関係を言うことによって、ほかの要素を無視するように、誘導するのだ。
そして、逆の関係を暗示する。逆の関係が、言っている人に優越感を与えるようになっているのだ。
たとえば、「努力をすれば成功する」と言っているときは、『自分は努力をしたから、成功した』という気持ちがあるのである。そして、自分は説教をする資格があるという気持ちになっているのである。
『成功』のゴールをずらせば、他人から見て、どれだけ成功していないように見える人でも、人に説教をしているときは、本人は『自分は成功した』と思っているのである。
相手は、成功していない人間なので、努力をしてこなかった人間だということになる。だから、説教をしてもいいのである。
そして、各種サブルーチンに入っていく。「こころがまえができていないから、努力をしても成功しないのだ」ということを語りだすのだ。
こういうしくみが最初から成り立っている。
相対的に条件が悪い人を苦しめるようになっている。相対的に条件がいい人が、自分は成功したつもりで、相手にダメ出しをするようになっている。
たとえば、「努力をすれば成功する」というい言い方は、説教をする人に、そういう権利を与えてしまう言い方なのである。