たいていの労働者?ビジネスマン?サラリーマン?は、目標をもってがんがん働いているわけではなくて、生きるために、がまんして働いている。なので、がまんしないように、リタイアして貧乏生活をはじめました……というようなコンテンツをもつブログが、あるていど、うける。
あるていど……と書いたのは、やる気にみちている上級労働者や物欲にみちている、そこそこの労働者にとって、貧乏リタイア生活が魅力的なものにうつらないからだ。
ようするに、社会のなかの一部のものは、脱労働をめざして、貧乏系リタイアをするけど、ほかのものは、社会的な『中程度の成功』をめざして、普通に社会生活をするのであるから、貧乏系リタイア生活をそれほど、啓蒙する必要がないという、意見がある。
しかし、そういう議論がまったく成り立たないような、すごい状態になってしまった。
まあ、前投稿の通り、前提が崩れてしまったので、こういう議論には意味がなくなってしまった。
いままでの社会ということを考えるなら、貧乏リタイアと普通のリタイアのあいだには差がある。貧乏リタイアをする人は、労働を毛嫌いしている。普通の労働にはたえられないのである。この切迫感。この切迫感が、五〇代まで普通の労働をしてきた、普通のリタイア者には理解できないのである。
両者は、ともに、「会社での労働がいやだ」と言う。両者はともに会社の仕事の愚痴を言う。けど、『いやさの度合い』がちがいすぎる。だから、話があわない。貧乏リタイアをする人は、普通の会社の労働にたえられないのである。
そういうレベルできらいなのである。
五〇代まで普通の労働をしてきた人は、事実、普通の会社の労働に何十年間も耐えてきた。まあ、三十数年間ということにしておこう。三十数年間にたえてきた。いやいや、たえてきた。……たえてきたという事実。
たえなければ、普通のリタイア生活をおくれない。普通のリタイア生活をささえるじゅうぶんなカネを貯金することができない。あるいは、資本金として運用することができない。
ようするに両者ともに「仕事がいやだ」と言っているけど、その『いやさの度合い』がちがいすぎるのである。
一方は、たえられないと思っている。一方は、たえてきた。このちがいがでかすぎる。
どっちがいいかということではなくて、ともかく、ちがいがある。
このちがいを無視すると、どこまでも、話があわないということになる。『いやさの度合いが違う』……ここのところを、考えるべきだ。
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まあ、すべてが、ひっくりかえるからねぇ。
いままで価値観で生きてきた人たちが……。かわる。