2026年2月27日金曜日

●ところが、ちがうのである■騒音※2026/02/22 7:18

 ほんとうに、鳴っているあいだの「状態」がひどいのである。脳みその状態がひどいのである。ぼくの状態がひどいのである。ほかの人が「騒音にさらされている状態」を想像したときの「ひどさ」よりも、ぼくの状態のほうが、ひどいのである。どうしてかというと、きちがい兄貴による至近距離の騒音だからだ。どうしてかというと、ぼくがこの世で一番嫌いな音で構成されている音楽だからだ。そして、たとえば、ぼくが「フォークギターぐらいの騒音でとやかく言っている」と思う人たちもいる。この人たちは、誤解をしているのだけど、誤解をしているということを、……ぼくの経験の範囲でいうと……認めてくれたことがない。俺がなにをいっても、「たいしてでかい音で鳴っていないのにエイリさんがこだわっている」と思っているみたいなのだ。「そんなの……騒音ぐらい俺だってある」と言っていた人がいるけど、その人が経験しているその騒音というのは、音のでかさを考えると、兄貴の騒音とはちがうと思う。ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがいだから、普通の人が鳴らさないような音で鳴らすのである。そして、普通の人なら、あれだけでかい音で鳴らしていれば、「気にする」のに、気にしないのである。で、気にしないというのが、精神病のレベルで気にしないのだ。ほんとうは、きちがい的でかい音で鳴らしているのに、自分では普通の音で鳴らしていると思っているのだ。きちがい兄貴も「フォークギターぐらいの音で鳴らしている」と思っている人間だ。ところが、ちがうのである。

2026年2月26日木曜日

●「掃除をしていないから不幸なのだ」■社会※2026/02/26 23:03

  ほんとうのことを言ってしまえば、掃除をしていても不幸な人はいるし、掃除をしなくても幸福な人はいる。ある人が、掃除をしたあと、すっきりしてしあわせを感じるということがあるということは、わたしは否定しない。たしかに、しあわせを感じているのだから、「しあわせになる」と表現してもよいことになる。しかし、それは、その人が、掃除をしあと、しあわせを感じるということを意味しているにすぎないのである。「掃除をすれば、しあわせになる」という法則について、述べているのではなくて、あくまでも、個人的な感想を述べているにすぎない。しかし、「方法」としての「掃除をすれば、しあわせになる」というのは、「方法」なので、一括思考になってしまうのである。「掃除をすれば、しあわせになる」というのは、「Xをすれば、Yになる」という構造をもつ文なのである。この場合、意図せず?一〇〇%構文になってしまうので、一括思考になってしまうのである。一度抽象化されると、「例外なく」成り立つということになってしまうのである。その場合、現実社会には、例外があるので、例外の人は、無理なことを言われて苦労するということになってしまうのである。そして、掃除しない人であって、不幸せな人がいたとしたら、掃除をしないから不幸せなのだということになってしまうのだ。これも、文の構造から導き出される必然だから、避けることができない。言っているほうは、ぜんぜん、気にないけど、言われたほうは、いやな気分がするときがある。言っているほうは、ニセの理由を考えだし、ニセの理由でそうなっていると断言することになるので、断言されたほうは、不愉快な気持ちになるのである。しかし、言っているほうは、理論的に正しいと思っているので、相手が言っていること(言われたほうが言っていること)を認めないのである。「掃除をしない」という理由で不幸になっているわけではなくて、ほかの理由で不幸になっている場合は、ほかの理由で不幸になっているのだから、「掃除をしない」という理由は、ニセの理由なのである。本人のことについて、事情を知らない他人が、決めつけるので、不愉快な気持ちになるのだ。そして、ほんとうの理由が、「掃除をしにくい状態」をつくりだしている場合は、さらに不愉快な気持ちになる。言っているほうは、「掃除をしていないから不幸なのだ」ということを言ってくるわけ。「掃除をすれば幸福になる」のだから、掃除をすれば、不幸な状態ではなくなるのだ。しかし、ほんとうの理由によって、掃除ができない状態になっている場合、不愉快な気持ちになる。どうしてかというと、「掃除をしていないから不幸なのだ」と言ってるほうに誤解があるからだ。

●「掃除をすればしあわせになる」■社会※2026/02/26 20:40

一括思考をしているときは、例外のない一括思考をしているのである。たとえば、「掃除をすればしあわせになる」と言っているときは、「掃除をすれば、しあわせになる」と言っているのである。「どんな状態でも、掃除をすれば、しあわせになる」と言っているのとおなじなのである。しかし、動かない人がいるとする。動けない人は、掃除をすることができない。なので、動けない人は、掃除をしてしあわせになることができないのである。しかし、ここでも、精神世界の人は、「動けないと思っているから、うごけない」「動けないということにこだわっているから動けない」「動けると言えば動ける」「動けると思えば動ける」と妄想的なことを言ってしまうのである。「動けないときは、まず、動けばいい」「動こうと考えるまえに、動いてしまえば動ける」「考えずに動くことを習慣化すれば、動ける」というようなことも、言ってしまう。これは、一括思考をしている限り、妄想的な内容なのだけど、「脳科学的に正しい」などと言ってしまうのだ。だから、動けない状態は、無視して、「動こうと思えば、動ける」というようなことを言ってしまう。一括思考というのは、このように、残酷なところがあるのである。そして、「掃除をする」ということと「しあわせになる」ということの関係は、ほんとうは、ない。これも、「しあわせになる」というのが、あいまいな言葉なので、どのようにも解釈することができるので、「掃除をすると、しあわせな気分になる」人は、疑問を感じないのだけど、実際には、関係があるとは言えない。ところが、一〇〇%の関係があると、これまた、一括思考をしてしまうのである。

じつは、それだけではすまない。動けない人がいると想定すると、動けない人に対しても「掃除をしないから、不幸なのだ」と言ってしまう。「掃除をしないことが、しあわせになれないことの原因だ」と決めつけてしまうのである。動けないという状態を、精神世界の人は、まったく考えていないのである。

ところが、精神世界の人が、いざ、動けなくなると、言っていることが、逆転してしまうのである。「これこれ、こういう理由で動けないのはあたりまえだ」と考えてしまうのである。いままで、自分が「正しい」と言ってきたことなんて、関係がないのだ。こういう、自分勝手なところがある。これは、言霊主義者の行動を通して、いままで、説明してきたことと、合致する。しかも、自分が、正反対のことを言っているということについて、無頓着なのである。矛盾に気がつかない。精神世界の人が、動けるようになれば、また、「動けると言えば動ける」と言い出す。動けないようになって、そのまま死んでしまった場合は、自分の矛盾に最後まで気がつかずに死んでしまうのである。だから、おろかな間違いが、人から人へ、伝統的に受け継がれることになる。

●運気というのは、実体の写し絵なのである■社会※2026/02/26 5:36

 一括思考ということについて書いたけど、「すべて」というような言葉を含んでいなくても、一括思考になってしまう場合がある。たとえば、「運気」というような言葉は、その言葉自体が、一括思考を「さそう」言葉なのである。運気というのは、実体の写し絵なのである。悪い出来事が多いと、運気がさがったということになり、良い出来事が多いと、運気があがったということになるのである。ようするに、「運気」というのは、後出しじゃんけんで決まることなのである。そして、主体と客体(観察者)の問題がある。自分が自分自身についてどう思っているのかということと、自分が他人についてどう思っているのかということについては、分けて考えなければならないのである。ところが、他人も自分も一緒くたになってしまう。自己責任論とおなじなのだ。自分を対象にした自己責任論と、他人を対象とした自己責任論は、まったくちがうものなのに、特に、区別されないという特徴が(自己責任論には)ある。それと同様に、「運気」も、自分が他人の「運気」についてどう思っているのかということと、自分が自分の「運気」についてどう思っているかということは、ちがうことなのである。宇宙を貫く統一理論ではないけど、「運気」という言葉を使うことによって、あたかも、「運気の法則」がこの世を支配しているようなイメージを植え付けるのである。この世と書いたけど、実際には、「運気の法則」が、「ひと」の「幸福」と「不幸」を支配しているようなイメージを与えてしまうのである。運気の法則というのは、じつは、現実の写し絵でしかない。自分自身のことについて考えた場合、良い出来事がたびたび起こると「運がいい」ということになり「運気があがった」ということになるのである。そして、悪い出来事がたびたび起こると「運が悪い」ということになり、「運気がさがった」ということになるのである。しかし、それは、実際の出来事が決まったあとの話なのである。実利的に、「運気」というものがあり……「自分に、運気というものが宿っていて」その運気というものが、自立した性質をもっているように誤解をしてしまうのだけど、じつは、「運気」というのは、現実の写し絵でしかない。具体的な性質をもったものではないのに、あたかも、具体的な性質をもったものとして扱われるのである。どういうことかというと、たとえば、「運がいいから」良いことが起こると思ってしまうのだ。しかし、良いことが(頻繁に起こったから)運がいい」と思うようになったのだ。順番が違う。要するに実際に起こったことを「記述しているだけのことば」なのに、あたかも、自立した性質を持つような言葉として扱われているのである。たとえば、「運気」が身体に宿っているとする。強い運気をもつものは、いいことが起こり、運気が弱い人は悪いことが起こるということになってしまうのである。これは、自立した性質を持つのとしてイメージされているということを意味している。運気がまずあり、運気の「流れによって」いいことが起こったり、悪いことが起こったりするというプリミティブな感覚があるのである。ところが、その運気というのは、実際に起こった出来事の「結果集計」でしかない。運気というのは、単なる「時間的な集計結果」でしかないのだ。そして、時間的な集計結果というのは、条件によって、ほとんどが決まってしまうのである。だから、ほんとうは、運気という言葉で表現されているものは、さまざまな条件が結果に影響を与えているということの、言い換えにすぎないのである。ようするに、「運気」などはなく、「条件」しかない。条件が悪いと、悪いことで起きやすくなるのである。そして、条件が良いと、良いことが起きやすくなるのである。運気は、関係がない。条件が良いから、良いことが頻繁に起こる場合、「運気が強い」と表現されるようになって、条件が悪いから、悪いことが頻繁に起こる場合、「運気が弱い」と表現されることになっているだけだ。

2026年2月25日水曜日

●どうして、言霊主義者は、こんなにも、無頓着でいられるのか■言霊※2026/02/24 0:20

言霊について語るときは、万能感があるのだけど、現実的な問題に関しては、万能感は、うしなわれ、現実的な「しょぼい」方法が採用されるのである。言霊主義者の頭のなかですら、そうなのである。

言えば言ったことが言霊の力で、現実化するのだから、どこかの空き地を見つけて、「これ以降、この土地は、Bさんの所有地になる」と言えば、Bさんの所有地にすることができるのだ。

そして、「その土地のうえに、三秒以内に3LDKの家が建つ」と言えば、3LDKの家が建つだ。3LDKの家が建たなかったら、「言い方が悪い」のだ。

言霊主義者は、ほかの人の悩みを聴いて、ほかの人に、言霊的な助言をしているときは、「自分は、言霊の力を使うことができる」という前提でものを言っていることが多い。

「自分は、言霊の力を使うことができる」と本気で思っている。「自分は言い方がいいので、言うだけで、言ったことを現実化できるのだ」と本気で思っている。

ところが、欲しい本を目の前に出現させることなんてできないのだ。3LDKの家を目の前に出現させることなんてことも、できないのだ。

その場合、自分ができないのは、言い方が悪いからではないのである。


「そんなことは、そもそもできるわけがない」と思っているから、言霊的な解決方法を思いつかないだけだ。

けど、自分以外の人が、自分の助言に従って「言った」にもかかわらず、そうならなかったという話を聴いた場合は、相手の言い方が悪かったから、現実化しなかったということになってしまう。こういう矛盾を抱えているのが言霊主義者だ。

「言えば、言ったことが現実化する」と(言霊主義者は)言うけど、絶版本を手に入れる場合は、オークションサイトに頼ったりするのである。

ようするに、ほかの人とおなじような方法で、自分の欲しいものを呈似れようとするのである。袋ラーメンがほしくなったら、駅前の店で買ったり、通販で買ったりする。

「これこれこういう袋ラーメンが、三秒以内に、目の前に出現する」と言って、手に入れるわけではない。最初から、言霊的な解決方法は、無視されているのである。

もし、これこれこういう袋ラーメンが、三秒以内に、目の前に出現する」と言ったのに、これこれこういう袋ラーメンが、三秒以内に、目の前に出現しなかったら、言い方が悪いから、出現しなかったのだと(言霊主義者が考えるかというと……考えないのだ。

「そんなのは、言ったって出現するわけがない」と思っているのだ。

つまり、「言っても、言っただけでは出現することはない」と考えているのだ。

つまり、「言っても、言っただけでは現実しない」と考えているのだ。

つまり、言霊の力によって、現実化しないと考えているのだ。

言い方がよくたって、現実化しないのである。

どれだけこころをこめて「これこれこういう袋ラーメンが、三秒以内に、目の前に出現する」と言ったって、袋ラーメンが目の前に出現することはないと考えているのだ。言霊主義者本人は「言ったって、現実化するわけがない」と考えているのだ。

ところが、言霊主義者は、普段、自分が、「言ったって、現実化するわけがない」と考えて行動しているとは思っていない。自分の具体的なことに関しては「そんなの、言ったって無駄だ」と思って、現実的な手段を模索するのである。

現実的な行動をして、問題を解決しようとするのである。その場合、現実的な行動というのは、すべて、物理的な世界で、物理的な運動をすることによって、完了するのである。

一切合切、言霊の力がかかわっていない。

一切合切、言霊の力がかかわっていないということについて、どうして、言霊主義者は、こんなにも、無頓着でいられるのか?

「言ったって、現実化しない」と考えているから、無頓着なのである。

2026年2月23日月曜日

●「一括思考で決めつけられて」いやな思いをする■社会※2026/02/22 22:59

 一括思考をする人は、「ほんとうに自業自得である場合」と「ほんとうは責任がない場合」を、区別しないのだ。

たとえば、就職氷河期においては、就職氷河期以外の期間にくらべて、あきらかに、就職しにくい状態だった。正規従業員(正社員)として、就職するということが、難しい時代(時期)だったのだ。これは、その年に生まれた人の責任ではない。

つまり、就職氷河期マイナス一八年・生まれの人や、就職氷河期マイナス二二年・生まれの人……の責任ではない。

そして、日本の商習慣についても、この人たちの責任ではないわけだ。

日本の商習慣というのは、この場合、学校を卒業してからの正社員歴がないと、いろいろと不利な扱いを受けるということだとする。不利な扱いを受けるほうに責任があるのかというと、ほんとうはない。

何年何月に生まれたということも、日本の商習慣にも、氷河期世代の人には責任がないわけだ。

ところが、「すべては自己責任」という考え方を他人に適応すると、何年何月に生まれたということも、日本の商習慣からしょうじることも、その人たち(氷河期世代の人たち)の責任だということになってしまうのである。

いっぽう、自分の行為については、責任がつきまとう。

たとえば、自分がでかい音で鳴らしたいからずっと、でかい音で音楽を鳴らすという行為は、迷惑行為なのだ。「自分」が選んでやったことだ。

もちろん、責任がある。でかい音で鳴らし続けたという責任がある。これを、わざわざ、自己責任という言葉で表現する必要はない。

あるいは、気分がむしゃくしゃするから、駅前に行って、駅前にいた人を包丁で刺した人がいたとする。とりあえず、Aさんだとする。Aさんには、責任がある。どうしてかというと、自分が、やりたくてやったことだからだ。

騒音とおなじように、迷惑行為を、自分の意思に従って、やったという責任がある。

これも、自己責任という言葉で表現するのは、問題があると思うけど、自己責任だ。本人に責任があるということを表現するなら、自己責任だ。

一括思考をしてしまうと、何年何月に生まれて(就職において)不利な扱いを受けたということも、自己責任であり、駅前にいた人を包丁で刺した結果、自分が捕まって死刑判決を受けたということも、自己責任だということになってしまう。

「すべては、自己責任だ」と考えるので、そうなってしまうのである。

しかし、何年何月に生まれて(就職において)不利な扱いを受けたということと、駅前にいた人を包丁で刺した結果、自分が捕まって死刑判決を受けたということには、明らかな「差」があるのである。

その差を無視するのが、一括思考だ。

*     *     * 

「すべては自己責任だ」という一括思考について語ってきたけど、これは、「すべては受け止め方の問題だ」という一括思考にもあてはまることだ。

「すべては、受け止め方の問題だ」という言い方も、個別具体性を無視した言い方なのである。

なので、条件が悪い人と……「すべては、受け止め方の問題だ」と考える人の「相性」は悪くなる。

基本的なことを言ってしまうと、「すべては……思考」が間違っているのだ。

一括思考は、個別具体性を考えない思考なので、個別具体性をもっていることに関しては、問題がしょうじる。「個別具体性をもっていること」と書いたけど、人間というのは、各人が各人の具体的な条件をもっている世界で生きているのである。

うまれた家がちがえば、条件がちがう。

うまれた家の「だいたいの経済レベル」がおなじでも、母親や父親の性格がちがえば、ちがう条件下に生まれたということになるのである。

だから、経済的に同レベルであったとしても、条件は、(人によって)ちがう。

人の人生に関係することや、人の生活に関係することにおいては、この条件の差というのは、結果の差を引き起こす原因になる。

ところが、「すべては自己責任だ」「すべては、受け止め方の問題だ」と言い張る人は、個々人の条件を無視して「すべては自己責任だ」「すべては、受け止め方の問題だ」と言い張っているわけである。

当然、条件が不利な人は、「一括思考で決めつけられて」いやな思いをするということになると思う。まあ、これも、一〇〇%の人がいやな思いをするとは決めつけられないので、多くの人が、いやな思いをするだろうと(わたしが)思うという言い方になる。

しかし、程度はどうであれ、いやな思いをすると思うよ。

●ぼくから『機械の中の幽霊』を買った人に、ちょっと伝えておきたい■社会※2026/02/23 6:47(後でページに移行)

 むかし、アマゾンマーケットプレイスで本を売っていたことがある。そのとき、 アーサーケストラーの『機械の中の幽霊』という本も売った。おカネがなかったので、ほんとうは、売りたくなかったけど、むなしい気持ちで売った。でっ、買ってくれた人がいた。ぼくは、なるべく早く届けてあげようと思って、一駅先の、中央郵便局に、自転車をこいで行った。ほんとうは、そういうことしなくてもよかったのけど、「なるべく早く届けてあげよう」と思ったので、そうした。でっ、その本を買った人が研究者だったわけ。でっ、ちょっとやり取りをしたのだけど、「研究室はどこですか」みたいなことを、その人(購入者)が聴いてきた。それで、ぼくは、ヘビメタ騒音のことや学歴がないことを、話したくなかった。なので、そういう気持ちで返事を書いたのだけど、その人は、自分(その人)が、拒絶されたと思ったんだよなぁ。そりゃ、ヘビメタ騒音のことを話さないと、学歴がない理由というのが、説明できないから、研究者じゃないということを書くなら、ヘビメタ騒音のことも説明しなければならないような気分になった。ともかく、混沌とした気分になるわけよ。わかるかな。ヘビメタ騒音……。ヘビメタ騒音……。一五年間、毎日続いたヘビメタ騒音。俺の学歴と人生を破壊したヘビメタ騒音……。言うに言えない気持ちになった。別に、その人のことを、傷つけるつもりはなかった。ただ、研究者じゃないということと高卒だということを、説明したくなかった。ともかく、まあ、まさか、ああいう反応が返ってくるとは思っていなかったのだけど、ヘビメタ騒音で学歴がないということがあると、いろいろなところで、強烈にむなしい気分を味わうことになるのだ。これ、絶対に、きちがい的な家族が鳴らす騒音に十数年間さらされ続けた人じゃないとわからない。勉強を邪魔され、通勤通学ができない体にされてしまう。「説明したくない」という気持ちになるときがある。

なんか、ぼくが、その人をバカにしたと、その人は思っているみたいなのだけど、言いたくないことを言わないで、あのメールに返事を書くとすると、ああいうメールになってしまうんだよなぁ。ともかく、言いたいのは、「バカにするような意図はなかった」ということだ。

なんか、ヘビメタ騒音で、いろいろと、疑われるんだよね。ときどき、質のいい人が、ぼくにあいたいと言ってくる場合がある。それは、学問的なことではない。けど、「ヘビメタ騒音で学歴がない」「無職だ(当時)」ということを説明したくないので、あわなかったということがある。ときどき、頭のいい人が、ぼくの資質を認めてくれるんだよなぁ。けど、あえない。

*     *     *

「ぼくが、その人をバカにしたと、その人は思っているみたい(だった)」ということについて、ちょっと説明をしておく。相手にしたくない感じが出ている文章だったわけだ。相手にしたくない理由について、その人が、誤解をしているのである。相手にしたくない理由というのは、ぼくが研究者じゃないからだ。ぼくが、ヘビメタ騒音にやられて、無職だったからだ。これ、ほんとうに、説明したくないときがある。ヘビメタ騒音という理由があると、相手が誤解をしてしまうときがあるんだよね。ぼくとしては、ヘビメタ騒音という理由を隠したいときがある。言いにくいときがある。これ、ほんとうに、言いにくいんだよ。それまでの文脈によっては、言いにくいことになる。

たとえば、その人(実際に研究者である人)が「こんなに、いい人にあえるとは思わなかった。マーケットプレイスっていいな」というようなことを書いてくれたわけ。 

●一括思考と、条件が悪い人の相性が悪い■社会※2026/02/22 5:33

一括思考主義者と条件が悪い人の、相性が悪いのである。とりあえず、一括思考主義者と書いたけど、一括思考をしてしまう人の一括思考主義者としておく。

一括思考というのは「すべてはなになにだ」というような思考のことだ。個別の具体例について考えないで……「すべては、こうなんだ」というふうに、決めつける思考のことだ。

抽象度が高い集団や集合に対して、「すべてはこうだ」と決めつけてしまうのだ。

たとえば、「すべては自己責任だ」と決めつけてしまう思考が……ここで言う……一括思考だ。「その人の身になにかが起こったら、なにが起こったにしろ、すべて、その人の責任だ」と決めつけてしまう。

「一括思考」なのだ。

この一括思考と、条件が悪い人の相性が悪いのである。

一括思考というのは、個別具体性を考えないという思考のスタイルだ。そして、人間は、自分が一倍速で経験したことに関する認知と、他人が一倍速で経験したことに関する自分の認知がちがいすぎる動物なのである。

なので、このふたつがそろうと、「条件が悪い人」が「不愉快な思いをする」ということになるのだ。「やられた人」が不愉快な思いをするということになる。

ほんとうは、個別具体性ということは、重要だ。

個別具体性を考えなくてもいいなら、裁判なんて必要がないのである。

一括思考主義者は、個別具体性を考えることを放棄した人間なのである。

もちろん、自分が一倍速で経験したことに関しては、個別具体性を考えているのである。

けど、他人が一倍速で経験したことに関しては、個別具体性を考えること自体を放棄している。

2026年2月22日日曜日

●もう、元の状態にはもどれない■騒音※2026/02/22 11:17

 しかし、どうするか?

こまったなぁ。基本、鬱だ。特に、期限を決められたものをやるとなると、強烈に、鬱になる。ほんとうに、動きたくない。なるべく早めに動いたほうがいいのはわかるのだけど……。

それが、憂鬱で憂鬱で、しかたがないのだ。

特に、ワクチン以降、人が集まるところには行きたくないのである。それも、ひとつの理由になっている。

動いているとき、ヘビメタ騒音で、憂鬱なのである。ヘビメタ騒音が積もりすぎて、いろいろな感情があるのだけど、とにもかくにも、憂鬱なのである。

どのみち、気分はあがらない。基本的なことを言ってしまうと、ヘビメタ騒音前の、普通の状態には、もう、どうあがいても、もどれないのだ。どうしてかというと、積もりすぎたから。

ずっと鳴っているということの意味がわかっていない人たちばかりだ。毎日、鳴っているということの意味がわかっていない人たちばかりだ。 

まあ、実際に、ヘビメタ騒音にやられてしまった以上……ほかの人が、多少わかってくれてもしかたがない。もう、精神に関しては、どうすることもできない。何度も言うけど、ヘビメタ騒音期間が長すぎて、もう、元の状態にはもどれない。

現実の世界で、実際に、起こったことが重要な意味をもつ。特に、十数年間毎日続いたことが、影響を与えないわけがないだろ。

毎日続いたことが、いいことならいいけど、めちゃくちゃに悪いことだから、悪い影響を与える。これは、しかたがないことだ。

●理解を示すかというと、示さない■社会※2026/02/21 7:25

人間というのは、他人の条件を軽く見るものなのである。こっちのほうが、法則性がありそうだ。

まあ、他人の条件を重視する人もいる。

けど、その他人の条件を重視する人たちだって、もちろん、自分の条件のほうが、重要なのだ。実際の条件というのは、その人の暮らしを規定している。自分が一倍速で感じていることと、他人が一倍速で感じていることを、区別しない人間なんて、たぶん、いないと思う。

ともかく、言霊主義者や努力論者ではなくても、他人の条件は、軽視してしまうものなのである。他人が条件について述べた場合、文の意味だけはわるけど、自分が一倍速で体験していることではないので、自分にとっての意味合いが、ないに等しい。

ともかく、精神世界の人や社会人ではなくても、相手の条件は軽く見るか、無視してしまう。

何度も言うけど、こっちのほうが、法則性がありそうなことなんだよなぁ。

エンパスでHSPである人がいたとする。この人が、会社で普通に働くのは、たいへんだ。無理がたたって、こわれてしまうかもしれない。

その、エンパスでHSPである人でさえ、やはり、他人の条件は軽視してしまうところがある。実際に、他人ではないので、他人のようには感じることができないのだ。

けど、エンパスでHSPである人は、ほかの人よりも、他人の条件に敏感なのだ。気持ちがわかってしまう。この「(他人の)気持ちがわかってしまう」ということが、どれだけ呪いのような効果を発揮してしまうか、わかる人は少ないだろう。

手短に言うと、エンパスでHSPである人は、この世で働くとなると非常につかれてしまう。能力があっても、相当に働きにくい状態になる。

けど、普通の人が、エンパスでHSPである人に、理解を示すかというと、示さない。

働けなくなれば、「さぼっている」とみなして、攻撃してくる。

これが、世の中だ。

「人に親切にしましょう」とか「人がいやがることはやめましょう」とか……どの口で言っているんだろうと思う。

2026年2月21日土曜日

●言霊主義者は、「程度」というものを考えない■言霊※2026/02/21 6:50

言霊主義者は、「程度」というものを考えないのだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言霊主義者は言う。

これは、「どんな状態でも、元気だ元気だと言えば元気になる」ということを、含んでいる。「元気だ元気だと言えば元気になる」というのは、状態に関係なく、元気だ元気だと言えば、一〇〇%確率で元気になるということを言っているのである。

「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないこと」はないのである。

もし、「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないこと」があるなら、「元気だ元気だと言えば元気になる」とは、言えないのだ。

「元気だ元気だと言えば元気になる場合がある」と言えば、よいのだ。

しかし、それも、元気になったような感じがするだけなのか、元気になったのか、よくわからない。実際に元気になったのではなくて、元気になったような気がしただけかもしれない。

具体的ないたみがなくなれば、いたみを感じているときより元気になったということができるのだけど、「元気だ元気だ」と言っても、いたみの原因がなくならない場合のほうが多い。

ともかく、言霊ではなくて、言葉の力はあるから、元気になったような気がするときはある。言霊主義者は「元気だ元気だと言えば元気になる場合がある」という文が持つ意味と「元気だ元気だと言えば元気になる」という文が持つ意味を、ごっちゃにしている。

混同している。

もうすでに書いたことだから、省略するけど、いろいろなところで、混同しているから「言霊理論が正しい」と思えるだけなのだ。

●堅物がなにを言っても、堅物が言ったとおりになる■言霊※2026/02/15 21:30

スピリチュアリストは、言霊思考、思霊思考、引き寄せ思考をもっているのである。

スピリチュアリストは、普通の人なので、根性論的な考え方も、もっていることが多い。

「一度、言ってダメだったら、何回でも(現実化するまで)言えばいい」というような考え方をもっている人が多い。

「無理だと言わずに、できると言って、できるまでやればいい」というような考え方も、言霊思考と根性論がミックスした考え方なのである。

「言えば、言ったことが(いつかは)現実化するのだから、何回でも言って、努力すればいい」というような考え方をもっているスピリチュアリストが多い。

それから、「他人を助けることはいいことだ」という、考え方がある。基本的に、言霊を信じているスピリチュアリストは、言霊的な考え方を教えてあげるのが、他人を助けることになる……と思っている。

だから、言霊的な助言をしてしまうことに抵抗がない。

ようするに、「言霊的な助言をすることは、いいことなので、もっと、助言をしてあげよう」ということになるのである。

言霊的な解決方法を教えてあげれば、教えられた人は、問題を可決できるのだから、人助けになる……と思っている。「人を助けることはいいことだ」というような考え方には、ほかの教えを宣伝?させるような効果があるのである。

ようするに、「人を助けることはいいことだ」という「教え」が入っていると、言霊思考、思霊思考、引き寄せ思考、根性論を教えてあげることはいいことだということになってしまうのである。

ところが、言霊思考を考えればわかることなのだけど、じつは、言霊思考で解決できる問題はないのだ。どうしてかというと、言霊が一切合切、存在しないからなのである。

だから、言霊の力も影響を与えることがないのである。

ようするに、言霊的な解決方法というのは、現実社会において、まったく、役に立たない解決法なのである。

そして、これが肝心なのだけど、言霊主義者は、自分が一倍速で経験していることについては、言霊的な解決方法を採用せず、現実的な解決方法を採用しているということに、気がついていない。

たとえば、言霊主義者本人は、「目の前に、一〇〇〇万円ぶんの札束が、出現する」と言って、おカネの問題を解決しようとしないのだ。

言霊主義者本人は、普通に働いてお金を稼ごうとするのである。

あるいは、年金などをあてにするのである。年金がじゅうぶんではないと感じたときは、言霊の力で、年金がじゅうぶんではないという問題を解決しようとしないのである。

「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」のだから、「自分の銀行口座に、年金が、月に五〇万円振り込まれるようになる」と言えば、それで、年金の額がじゅうぶんではないという問題は、解決できる「はず」なのである。

言霊理論が正しいのなら、言霊的な問題解決方法は、じゅうぶんに、有効な問題解決方法なのである。

ところが、言霊理論が、正しくないので、 言霊的な問題解決方法は、まったく意味がない問題解決方法なのである。

言霊主義者が、自分のおカネの問題を、言霊的な解決方法で解決しようとしていないということは、特筆するべきことなのである。

そして、言霊主義者がそれに気がついていないということは、もっと、特筆するべきことなのである。

貧乏な言霊主義者は「いつか、大金が手に入る」と言って、貧乏暮らしをしている状態なのである。おカネのことですら、言霊的な解決方法では、解決できないのだ。

*     *     * 

ぼくが、ある言霊主義者にぼくが考えたことを説明したとき、その言霊主義者は「理屈じゃないんだよ」とか「エイリさんは、へ理屈ばかりの堅物(かたぶつ)だ」と言ったのだ。

ぼくが政治について、なにかを言ったとしよう。

そうすると、その言霊主義者は「そんなのは理想論だ」と言ってきたのである。

その言霊主義者は、政治について、なにがしかのことを言っても、政治なんてかわるわけがないと思っているのである。

けど、言霊理論が正しいなら、なにを言っても、言った通りになってしまうのである。

ぼくだけではなくて、たとえば、その言霊主義者が、「なになにという法案が国会を通過する」と言ったら、なになにという法案が、国会を通過するのである。

言ったことが、現実化するのだから、もちろん、現実化するのである。

ぼくが、社会制度について、なにがしかのことを言ったら、言っただけで、言った通りになるのである。

「これこれこういう社会制度が成立する」と言ったら、言っただけで「これこれこういう社会制度が成立する」のである。

言霊理論に従えば、堅物がなにを言っても、堅物が言ったとおりになるのである。

おわかりか?

2026年2月20日金曜日

●こういう、「ふみつけ」がある■社会※2026/02/19 0:09

これ、ほんとうは、条件が悪い人に対するいじめみたいなものなのである。

条件を無視して、精神世界の話をするというのは、基本的に、条件が悪い人を、おいつめることなのだ。

けど、「改善できる」「解消できる」という触れ込みがある。

だから、基本的には、反対のことがしょうじてしまうのである。

けど、それは、個々の「条件が悪い人」のせいにされてしまうのである。個々の「条件が悪い人」が未熟だからそうなるということになってしまうのである。その条件が悪い人が成熟すれば、それでよいのである。

ところが、条件が悪いので、条件の悪さから、悪いことが発生してしまうのである。

そして、精神世界の人は、「他人」の「条件の悪さ」を無視するので、どこまでもどこまでも、条件が悪い人がおいつめられることになるのである。

たとえば、条件が悪い人は、オークションサイトも使えない。そうなると、たとえ、自分がほしいものであって、なおかつ、そこらへんで売っていないものが、出品されても、落札できないということになる。

言霊の例で話したけど、引き寄せでもおなじだ。

普通の人が、運よく落札できたとする。条件が悪い人は、落札できない。こういうちがいがあるのである。それは、条件のちがいがもたらすことなのである。

所持金の問題……カネの余裕の問題についても、実際には、個々人によって、状態がちがう。つまり、条件のちがいがある。

けど、「引き寄せ能力が高い人は、引き寄せられる」ということになってしまうのである。そして、「引き寄せ能力を高くするには、波動を高くすればいい」ということになってしまうのである。

ようするに、条件が悪い人は、波動が低いから、落札できないのである。

引き寄せ教祖の考えに従えば、条件が悪い人は、波動が低いから、自分がほしいものを引き寄せることができないということになる。

さらに、波動を高くするには、感謝をすればいいということを言い出す。こうなると、引き寄せができない人は、波動が低い人で、感謝の気持ちがたりない人だということに、なってしまうのである。

こういう、「ふみつけ」がある。

さらに、精神世界には、「選んで生まれてきた」というラスボスがいる。

カルマ論だ。

けっきょく、この世でくるしい思いをしている人は、それを選んで生まれてきたという決めつけが発生してしまう。

こんなの、妄想でしょ。

迷惑な妄想だ。

ところが、精神世界の人にとっては「真実だ」ということになっているのである。

●オークションサイトなんて使わなくても、目の前に出現させることができる■言霊※2026/02/17 17:57

住所不定の人は、オークションサイトで落札することさえできないということを書いた。

だから、住所をもっているかどうかというような条件が、オークションサイトで「好きなもの」を落札できるかどうかに影響を与えているのである。

言霊主義者は、「この本がほしい」と言ったから、「この本」を手に入れることができたと考えるのだけど、自分が住所をもち、落札手段をもっているということを、軽視している。

あるいは、完全に無視している。

たとえば、住所不定で、欲しい本も落札できない人をBさんだとしておく。

Aさんが、Bさんの問題を「言霊」で解決してやることは、ない。

どうしてかというと、言霊なんてものはなく、言霊の力も利用できないからだ。

Aさんは、言霊の力で、欲しい本に巡り合い、欲しい本を落札できたと思っているのだけど、じつは、このプロセスに、言霊の力は、一切合切関与していない。

手短に言うと、たとえば、Aさんが、「言うだけ」でBさんに、住所を提供してやることができないのだ。もちろん、言葉には、意思伝達ツールとしての側面がある。なので、適切なアドバイスをすることは、できるだろう。しかし、それは、言葉の力を使っただけで、言霊の力を使ったわけではないのだ。

Aさんが、言霊の力を使って、空き地をつくり、空き地に家を建て、Bさんにあげるということができるかというと、できないのだ。Aさんにできるのは、「市役所で相談すればいい」とか「自立生活サポートセンター・もやいという組織に相談すればいい」とか「住所をもてるタイプのネットカフェもあるから、そういうタイプのネットカフェに行けばいい」というようなことなのである。

社会制度というのがある。言霊で、かえることができるかというと、かえることができないのだ。

ようするに、言霊の話は、「現実的な話」になると、一気にしょぼくなるのだ。はっきり言ってしまうと、現実的な話になった場合、「言霊の力」なんて、出てこないのだ。

たとえば、AさんがBさんに、ネットカフェに行くまでのおカネをあげたとする。これのおカネの受け渡しですら、物理法則にのっとった、行為なのである。

Aさんが、言霊の力を使って、Bさんの手の上に、おカネを出現させることができるかというと、できないのだ。Bさんが、歩いて、ネットカフェに行ったとする。

どうして、Bさんは、歩行することができるのか?

言霊なんて関係がないのだ。

言霊の力で歩行することができるようになったわけではないのだ。

地面や道路があり、その上を歩くということは、じつに、物理的な行為なのである。

そして、物理的な行為を支えている物質がある。これだって、言霊の力で出現したわけではないし、言霊の力で、地面や道路の上を歩くことが可能になったわけではないのだ。

*     *     * 

社会制度的なプロセスというのも、言霊理論に従えば、言っただけでかえられるのである。「三秒以内に、この制度は、消滅する」と言えば、その制度は消滅するのだ。言霊理論が正しいのなら、言霊の力によって、言ったことが現実化するのだから、その制度は消滅する。

かわりに、「三秒以内に、これこれこういう制度ができる」と言ったら、言霊の力によって、言ったことが現実化するわけだから、これこれこういう制度ができあがるのである。

そもそも、Aさんは、言霊の力を使って、「ほしい本」を手に入れることができるはずだ。オークションサイトを使う必要なんてない。

出品者が、その本を出品するのを待つ必要なんてない。

「自分のまえに、一秒以内に、その本が、出現する」と言ってしまえば、言霊の力によって、オークションサイトなどを使わずに、欲しい本を手に入れることができる。

おなじやり方で、Bさんにも、Bさんがほしかった本をあげることができる。おなじやり方で、Bさんに住居を提供することができる。

どしうて、Aさんが、そういうことを、Bさんにしてやらないのか?

言霊の力なんて使えないから、そうしてやることができないのだ。

どれだけAさんが、そうしてやりたくても、Aさんは、言霊の力を使えないので、そうしてやることができないのだ。

けど、Aさんのなかでは「言霊は絶対」で「言霊の法則は宇宙を貫く絶対法則」で「自分は、その力を使うことができる」ということになっているのだ。

そのくせ、現実的なことに関しては、現実的な思考をしてしまうのである。

オークションサイトを使って、欲しい本を手に入れるというようなことをしてしまう。

何度も言うけど、言霊の力を使えるなら、オークションサイトなんて使わなくても、欲しい本を目の前に出現させることができる。オークションサイトを使うということ自体が、じつは、「自分は言霊の力を使えない」ということの、告白なのである。「言霊は絶対」で「言霊の法則は宇宙を貫く絶対法則」で「自分は、その力を使うことができる」ということになっているのだから、最初から、言霊の力を使って、「欲しい本」を出現させればよいのである。

「これこれこういう本が、三秒以内に、自分のまえのまえに出現する」と言えば、三秒以内に、自分のまえのまえに出現するのである。

どうしてかというと、「言ったことが、言霊の力によって現実化される」からだ。もし、出現しないのであれば、「言ったことが、言霊の力によって現実化されなかった」ということになる。

その言霊主義者は「自分は、その力を使うことができる」と思っているのだけど、じつは、使えないのだ。なんで、使えないということに気がつかないかというと、本人が一倍速で経験していることについては、現実的な思考をしてしまうからだ。無意識的に、現実的なことを考えてしまう。

「これこれこういう本が、三秒以内に、自分のまえのまえに出現する」と言ったって、本が出現することはないので、オークションサイトを使って手に入れようと現実的な思考をしてしまうのだ。現実的な方法で、本を手に入れようとしてしまう。

2026年2月18日水曜日

●『なにやってんだ』と思われるところがある■騒音※2026/02/18 17:38

サラリーマンで鬱状態になった場合、サラリーマンをやめれば、鬱状態ではなくなる人と、サラリーマンを辞めたあとも鬱状態が続く人がいる。

ぼくの場合は、サラリーマンをやるまえに、きちがいヘビメタ騒音生活で、鬱状態になった。

何年間も、十数年間もくるしい思いをしてきた。うち七年間は、学校に行っていた。ヘビメタ騒音が鳴っているのに、学校に行っていたのだ。これは、サラリーマンを辞めたあとも鬱状態が続く人とおなじだ。

しかし、サラリーマンの場合は、働いているという状態があり、サラリーマンを辞めたあとも、サラリーマンをやっていたという履歴が残る。

けど、俺の場合は、サラリーマンをやってなかったので、『なにやってんだ』と思われるところがある。

サラリーマンを辞めても、鬱状態が続く人は、『よっぽどひどいことがあったんだな』と思われるわけだけど、ぼくの場合は、そうじゃない。

学生時代に、家の中に鬱の原因があった。そして、通学していた。学生時代に終わっているのである。これは、ほかの人から見ると、理解しにくいことなのだ。

サラリーマンとして一〇年間、仕事をしたあとに、鬱になって、仕事を辞めたあとも、鬱状態が続くという話は分かりやすいのだけど、学生時代に騒音でやられて、働けなくなったというのは、理解されない話なのである。

*     *     *

こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音の影響を軽く見るのだ。ぜんぜん、ちがう。こいつらが想定しているようなものではないのだ。

どんだけひどい空間か、わかっていない。

どれだけ、次の日に影響が残るか、わかっていない。

こいつらが思っていることとは、ぜんぜん、ちがうことが起こっているんだよ。こいつらの脳みそが悪いから、わからないだけだろ。想像力がないから、想像できないだけだろ。

そして、普通の人がみんなわからないことを、きちがい兄貴がやり続けたという事実……。ぽっかり、穴があいているんだよね。

きちがい兄貴と「わからないやつら」に、殺されるところだった。きちがい兄貴と「働いたほうがいいと言うやつら」に、殺されるところだった。ゆるせない。 

みんな……「俺だってつかれている」「俺だって、憂鬱なときはある」「俺だってつらい」「俺だって騒音ぐらいあった」 と言う。

けど、こいつらは、その時点で通勤できるのである。こいつらは、その時点で通勤できる体をもっている。ぜんぜん、ちがう。通勤できる体をもっているのに「俺だってつらい」と言う。ぜんぜん、わかっていない。

ひとつには、経験がないからわからない。そして、もうひとつには、想像力がないからわからない。たぶん、経験も想像力もないのであろう。経験も想像力もないやつからが、「俺だって経験した」とエラそうに言う。まったくわかっていないんだよね。

そして、こういうちがいができあがったのは、きちがい兄貴の行為のせいなのだ。ほんとうに、きちがい兄貴の行動が原因になっている。原因は、きちがい兄貴の毎日の行為なんだよ。

きちがい兄貴の毎日の行為が……十数年間、続く毎日の行為が、ちがいを生み出した。

つまり、俺と「通勤ができる普通の人」の「みぞ」をつくりだした。こいつらは、こいつらで、認めない。「ヘビメタ騒音でき鳴った」と言えば、こいつらは、「俺だって、朝はつらい」「俺だって、へどが出るほど憂鬱だ」「俺だって、猛烈につかれている」と言いやがる。けど、通勤している。

そして、通勤して働いているという「立場」でものを言う。そういう元気がある。ふざけるな。そんなんじゃない。ぜんぜん、ちがう。

どういうことになるか、ほんとうにまったくわかっていないやつらが、誤解をして、クソ・エラそうなことを言う。ほんとうに、頭にくる。頭にくる。

*     *     *

ちょっと、クールダウンして、書くことにする。基本的に、わかってくれないやつは、経験がなく、想像力もないやつだ。経験がある人は、経験があるのだから、想像力がなくても、わかる。想像力がある場合も、当然、わかる。

経験がなくても、想像力がある人は、わかる。だから、けっきょく、経験がなく、想像力もないタイプ、経験はないけど、想像力があるタイプ、経験があるタイプの三タイプにわかれる。

そして、経験がなく想像力もないタイプがマジョリティーだ。全体の九九%がこのタイプだ。はっきり言ってしまうと、全体の九九・九%なのではないかと思う。社会人限定で言えば、社会人全体の九九・九%がわからないタイプなのである。このタイプのやつからが「わかっているつもり」で、クソを言ってくる。

ほんとうに、クソだ。こいつらは、想像力がないからわかっていないのに、わかっているつもりでいる。経験があるつもりでいる。ようするに、

この経験というのは、同等の経験だ。

ほんとうは、同等の経験がないのに、経験があるので、経験があるということにしてしまうのだ。詳しく書くと、同等の経験がないのに、同等ではない経験があるので、同等の経験があるということにしてしまうということだ。

どういうことかいうと、たとえば、「憂鬱な気分」というのは、(ほとんどの人が)みんなが経験している気分なのである。

しかし、同等の憂鬱な気分ではないのである。憂鬱を経験したといっても、経験した憂鬱の度合いや持続時間がちがうのである。

けど、憂鬱な気分というところまで抽象度を高めれば、「自分だって憂鬱な気分を経験した」と言うことができる。

このときに、自分が経験した憂鬱の度合いと持続時間は、エイリが経験した憂鬱の度合いと持続時間がおなじだという「設定」が成り立ってしまうのだ。

ほんとうは、ちがうのだけど、「同じだという設定」が成り立ってしまう。だから、憤慨する。これ、俺が憤慨しているわけではなくて、相手が憤慨しているのだ。

こいつらは、みんな……ほんとうに、みんな……俺……が……「ヘビメタ騒音でできない」「ヘビメタ騒音でできなくなった」と言うと、ムッとするのだ。怒っているのだ。こんなの、ない。

こいつらが、勘違いをして、自分はエイリとおなじレベルの憂鬱を経験したと思っているのだ。勘違いだ。想像力がないから、エイリが経験した憂鬱(ヘビメタ騒音によって引き起こされた憂鬱)を低く見積もっているのだ。

あるいは、完全にバカだから、完全に無視している。

こいつらの想像力がないから、同等の憂鬱だと勘違いして、さらに、俺を軽蔑して、さらにさらに、俺に対して、怒りをぶつけてくるのだ。こんなやつらばかりだ。「なんだ、ヘビメタ騒音なんて!」「なんだ、そんなこと!」と怒っているのだ。こんなやつらばかりだ。

●「普通の状態」がないのである■騒音※2026/02/18 6:42

まあ、ここは、自分の正直な気持ちを書いてしまう場所なので、書いてしまうけど、憂鬱だ。

やっぱり、家族の騒音が続きすぎた。破壊的な騒音が、ぼくの人生のなかで、長く続きすぎた。

じつは、いまも、憂鬱なのである。

ほんとうに、自分の人生のなかで経験したことを考えると……考えると……考えると、ほんとうにヘビメタ騒音がすべての「経験」を汚染しているのである。

ほかの人には、絶対にわからないことなんだよなぁ。ほかの人は、ただの憂鬱だと思うだろう。「そんなのは関係がない」と普通に言うやつらだからな。

ところが、ちがうんだよ。

毎日のことだった。ずっと、鳴ってた。鳴りやまなかった。鳴りやまなかったということは、鳴りやまない日々がずっと続いたということだ。

当然、二次災害、三次災害が発生する。

だって、ほんとうに、鳴っていなければできたことが、できなくなる。どれだけ頑張ってもできなくなる。これがなにを意味しているかというと、トラブルの発生を意味しているのである。

きちがいヘビメタが鳴っていると、きちがいヘビメタが鳴っていない時間、ほかの人との間に、トラブルが生じるのである。

しかも、「ヘビメタ騒音は関係がない」ということになっているのである。「そんなのは、お兄さんに言えばいい」と言った人がいたけど、言っている……。さんざん言っている……。

「そんなのは、お兄さんに言えばいい」と言った人は、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんはしずかにしてくれる(はずだ)」と本気で思っているんだよ。

そうなると、「ちゃんと言わないエイリが悪い」ということになってしまう。こういうことが、重複して発生するのである。

きちがい兄貴は、自分が思いっきりでかい音で鳴らしたいと、思いっきりでかい音で鳴らしているということを、否定して無視してしまう人なのだ。そうやって、自分の思いを現実化してしまうわけだ。

そして、これが肝心なところなのだけど、本人は、やっているつもりがないのである。

当然、やったつもりがない。

どれだけなにを言っても、きちがい兄貴本人は、言われたときに、発狂して、はねのけておしまいなのである。発狂して、はねのけた瞬間に、まったく関係がない人になっているのである。

きちがい兄貴が張本人なんだよ。きちがい兄貴がやっていることで……意地を張ってやっていることで、こまっているんだよ。

ところが、それを言っても、きちがいが、きちがいモードではねのけて、絶対に、こっちがいうことは聞かないで、自分の意地を通して、自分がやりたいことをやってしまうのである。だから、やっているのだけど、本人は、まったくわかっていない状態なのである。やっていない」つもりなのでる。

どれだけ、きちがい的な意地で、全部の時間を使って、ゆずらずにやってしまったとしても、一日一日、瞬間瞬間、『やってない』ということになってしまうのである。

これが、どれだけこまるか、ほかの人はわかっていない。

*     *     *

とにかく、ヘビメタ騒音が鳴っていない……わかいころがほしい。ヘビメタ騒音が鳴っていないわかい時間がほしい。本当にずっとやられた。生きているあいだじゅう、ずっとくるしかった。

きちがいヘビメタが鳴り始めてから、いままでずっとずっとずっと、くるしかった。

一日も、きちがいヘビメタが鳴っていなかった場合の「普通の状態」がないのである。

サラリーマンをして、仕事でつかれたから、セミリタイアを考えている人とはちょっと、ちがうのである。だいぶちがうのである。

サラリーマンをし続けることがいやな人の問題というのは、サラリーマンをやめれば、いちおうは、解決する。

ところが、ヘビメタ騒音が長い間鳴っていた……ぼくの人生を考えると、ヘビメタ騒音が鳴り終わっても、問題が解決しないのである。

サラリーマンをやめるように、ヘビメタ騒音に汚染された人生をやめるわけにはいかないのである。 

2026年2月17日火曜日

●自分が満たしていた条件を無視している■言霊※2026/02/16 19:58

「言う」ということと「悪い言い方で言う」ということについて、もう一度考えてみよう。

かつて、わたしは……「悪い言い方で言う」という集合は、「言う」という集合の部分集合だということを、指摘した。

ここでは、「悪い言い方」が、実際には、定義できないということについて、指摘しておきたい。これは、もう、かつて指摘したことなのだけど、もう一度言っておく。

「悪い言い方」なんてないのである。「よい言い方」もない。言霊主義者が、勝手に、結果を見て、「悪い言い方だ」と決めつけているだけなのである。

どういう言い方が悪い言い方なのかということについては、イメージがある。

たとえば、「小さな声で言う言い方」「もごもごした声で言う言い方」「こころをこめないで言う言い方」だ。反対に、よい言い方のイメージは、「大きな声で言う言い方」「はっきりとした声で言う言い方」「こころをこめて言う言い方」というようなイメージになると思う。

しかし、どれだけ、「大きな声で言う言い方」「はっきりとした声で言う言い方」「こころをこめて言う言い方」で言っても、言霊の力なんてものはないから、ダメなものは、ダメなのである。

ようするに、恒常的な悪い条件によって、悪いことが発生している場合、どれだけ「大きな声で言う言い方」「はっきりとした声で言う言い方」「こころをこめて言う言い方」で言っても、言ったことが(言ったあとに)現実化しない場合が多い。「言ったあと」に……現実化しない、確率は非常に高い。

一方、恒常的によい条件下で暮らしている人の場合、どれだけ、「小さな声で言う言い方」「もごもごした声で言う言い方」「こころをこめないで言う言い方」で言っても、言ったことが(言ったあとに)現実化するということが、ありえる。「言ったあと」に……現実化する確率は、中ぐらいだ。
 

しかし、この場合も、「瞬間移動できる」といったものは、避けられている。言霊主義者は、言っても現実化しないとわかっているものに関しては、言霊を使って現実化しようとしないのだ。

「なんとかいう本が手に入る」といった現実化する確率が高いものが選ばれている。

ともかく、言霊の力はないので、言霊の力で「なんとかという本が手に入った」わけではないのだ。

言ったあと、「なんとかという本」を手に入れることができたので、言霊主義者が「言ったから手に入った」と思っただけなのだ。

たとえば、「なんとかという雑誌の二〇一〇年一〇月号がほしい」人がいるとする。

まあ、Aさんということにしておこう。

言霊主義者のAさんが「なんとかという雑誌の二〇一〇年一〇月号を手に入れる」と言ったとする。そうしたら、「なんとかオークションというサイト」で、「なんとかという雑誌の二〇一〇年一〇月号」が出品されているのを(Aさんが)見つけたとする。

そして、Aさんが落札したとする。

Aさんは、言霊主義者なので「言ったから、手に入れることができた」と思うわけだ。

けど、条件が成り立っているのだ。

たとえば、Aさんが無職で住所不定だったら、そもそも、オークションサイトに登録することができない。Aさんが、落札できるおカネをもっていたということも、条件のひとつになる。

そして、クレジットカードやデビットカードをもっているというような条件もある。ようするに、支払い手段に関する条件もある。Aさんは、クレジットカードをもっていたので、オークションサイトに登録できたのである。Aさんは、住所があるという条件、おカネがあるという条件、支払い手段があるという条件を満たしていたのである。

だから、落札できた。

本人にとって、あたりまえの条件は、しばし、見過ごされがちになる。

言ったという条件だけを満たしているわけではないのである。オークションサイトに登録できなかったら、そもそも、オークションサイトに「なんとかという雑誌の二〇一〇年一〇月号」が出品されても、手に入れることができないのだ。

Aさんは「言ったから、手に入れることができた」と思っているだけで、自分が満たしていた条件を無視している。

条件が悪い人は、オークションサイトに登録できず、たとえ、「なんとかという雑誌の二〇一〇年一〇月号」が出品されても、手に入れることができないのだ。

人間には、他人の悪い条件については、考えにくいという傾向がある。

さらに、無理やり(他人の)条件に付いて考えても、ステレオタイプの考え方しか浮かばない傾向が強い。他人の条件というのは、短い文で表現される場合があるけど、その短い文で表現されている条件というのは、「その人が抱えている条件」のうち、目立った条件だけだ。そして、普通の人は、他人の条件に対して注意を払わない(傾向がものすごく強いので)他人の条件は、無視されるか、軽視されてしまうのである。その人が抱えているリアルな条件というのは、他人によって、無視され、軽視されることになる。

*     *     * 

もう一つ言っておかなければならないことは、Aさんは、住むところを「言霊の力」で、手に入れたわけではないというとだ。

部屋を借りる場合は、手続きをして、住むところを手に入れたのである。自分で、マンションを買う場合や、自分で家を買う場合も、手続きをして、住むところを手に入れたのである。

「現実的な手段」で手に入れたということだ。

現実の手続きを無視して、言霊の力で、手に入れたわけではない。

「三秒以内に、この土地に、自分の家が建つ」と言ったから、言霊の力で、自分の家が建ったわけではない。

物理的な方法で、自分の家を手に入れたのである。社会制度にそったかたちで、いくつかの行動をして、自分の家を手に入れたのである。

家をつくる人たちだって、物理的な方法で家をつくったのである。

「言った」だけで、「言ったから」……急に、家ができたわけではない。

そういうことを、全部、無視しているのが、言霊主義者だ。

*     *     * 

話を元に戻す。ほんとうは、「悪い言い方」の定義はない。ほんとうは、「よい言い方」の定義もない。うまくいったら、よい方で言ったということになり、うまくいかなかったら、悪い言い方で言ったということになってしまうのだ。

言霊主義者が、事前に誤解をしていて、「自分は言霊を使える」と思っていたとしよう。

その場合、誤解をしているだけなのだけど、言霊主義者の頭のなかでは、「これは、真実だ」ということになっている。

言霊主義者の頭のなかでは「言霊はある。言霊の力がある。言霊の力を自分が使うことができる」というのは、真実なのだ。

ところが、嘘なのである。事実じゃないのである。真実じゃないのである。

ただ、言霊主義者が、誤解をしているだけなのである。

*     *     * 

言霊主義者は、言霊的な考え方をひろめるのは、いいことだと思っている。ほかの人が悩んでいたら、その悩んでいる人に、言霊的な解決方法を教えてあげることはいいことだと思っている。だから、言霊的な助言をしてしまう傾向が強い。

条件が悪い人は、条件が悪いので、たいていの場合は、どれだけこころをこめて言ったとしても、問題が解決しないのである。

ところが、問題が解決しなかった場合、「言い方が悪かった」ということになってしまうのである。言霊主義者が、問題が解決したなかった人に、「言い方が悪いからダメなんだ」とダメ出しをすることになる。けど、これも、間違っているのだ。

2026年2月16日月曜日

●「自分は魔法の呪文をうまく言える」■言霊※2026/02/15 16:15

「うまくいかなかった人の悪口を言うということが、決まっている」というところに書いたけど、ちょっと付け足しをしておく。

基本、言霊主義者の態度というのは「自分は魔法を使える」という態度なのだ。魔法を使えると思った根拠というのは「雨が降ると言ったら、雨が降った」とか「元気だ元気だと言ったら、元気になった(ような気がした)」とかというようなものだ。

根拠からして、間違っているのだけど、本人は、ほんとうに、根拠になると思っているので、本人の視点からすれは、根拠としてじゅうぶんなのである。

自分は、魔法を使えるけど、相手は、魔法を使えないというような認識が成り立っているのだ。

もちろん、言霊主義者自身も、魔法なんて使えない。

ところが、自分は、呪文をうまく言えるので、魔法が発動するけど、相手は、呪文をうまく言えないので魔法が発動しないのだと決めつけている状態なのである。

「このように言えば、言霊は、絶対なので、言った通りになる」と本気で思っているのだ。ようするに、相手の言い方がへたくそだから、「言った通りにならない」と本気で思っているのだ。

しかし、言霊なんてないので、ほんとうは、言い方なんて関係がない。

本当は、言霊主義者も、魔法なんて使えないので、「自分は呪文をうまく言える」というような自信は、まったく根拠のない自信なのである。

もちろん、呪文をうまく言えば、言霊が発動するけど、呪文をうまく言わないと言霊が発動しないというような考え方は、根本的に間違っている。言霊主義者は、「自分は魔法の呪文をうまく言える」という間違った自信をもっているのである。

しかし、これは、何回も説明したけど、「言う」という集合のなかに、「悪い言い方で言う」という集合が含まれている。これが、言霊主義者にはわかっていないのだ。

もともと、言霊という考え方が「嘘」であり、言霊の力なんてものは、最初からないのだ。この誤解の上に、さらに、全体集合と部分集合の関係がわからないというような無理解さが付け加わる。

「どっちの集合がでかいのか、ちょっと考えてみろ」と言いたくなる。

ともかく、言霊主義者は、「うまくいかなかった相手」のまえでは、自分は言霊の力を使えるという前提で話を進めるのである。

ようするに、「自分は魔法を使える」という前提で、話を進めるのである。

しかし、実際の生活のなかでは、もちろん、言霊主義者だって魔法なんて使えないのである。本当は、矛盾を感じるべきなのであるけど、言霊主義者は、特に矛盾を感じないのである。

● 言うことは、『お札』のようなものなのである■言霊※2026/02/15 5:21

上書きの問題というのがある。実際には、上書きできないという問題だ。

たとえば、「自分はガンになるぞ」と思った人がいたとする。Aさんだとする。

Aさんが「自分はガンになるぞ」と言ったとする。そのあと、思い直して「自分はガンにならない」と言ったら、ガンにならないのである。

言霊理論が正しいなら、上書きは可能で、ガンにならないのである。

そのあと、Aさんが、強烈な発がん物質が入っている注射をして、ガンになったとする。その場合、実際にガンになった理由は、かつて、Aさんが「自分はガンになるぞ」と言ったことではないということになる。本当の理由は、注射なのである。(注射液以外のものが関与している可能性はある。)

まあ、これ、抵抗がある人がいるかもしれないので、Aさんが、「ガンにならない」と言ったあと、発がん物質が入っている食べ物を、毎日、ガンガン食べまくったとする。

その場合、発がん物質が入っている食べ物を、毎日、ガンガン食べたので、Aさんがガンになったのだけど、Aさんは「自分が、ガンになると言ったからガンになった」と思ってしまうのである。(食べ物以外のものが関与している可能性はある。)

言霊理論が正しいのなら、ガンになったって「ガンが一秒以内になおる」と言えば、一秒以内になおるはずなのである。言霊主義者なら、失望する必要はないのである。あせる必要もない。

「自分は、これ以降、病気にならない」と言えば、これ以降、病気になることがないのだから、なにも心配する必要はないのだ。

Aさんが、言霊理論を信じているようで、じつは信じていないということが、わかる。

言霊理論を信じているなら、いくらでも、上書きが可能なのだから、上書きをすればいいのだ。言い直せば、それですぐに、問題が解決する。言霊理論が正しいなら、問題が解決しないわけがない。言えば言ったとおりになるのだから、言っただけで問題を解決できるのである。

どうして、ガンになってしまったAさんが、不安になるのか?

「ガンがすぐになおる」と言ったって、なおらないかもしれないと思っているから、不安になるのである。Aさんが、「自分はガンになるぞ」と言ったから、自分がガンになったと思ったのは、実際に、ガンになったあとの話なのである。

言霊の力でガンになったのではなくて、体に取り入れた、発がん物質の力でガンになったのである。

しかし、実際に、ガンになったら、ガンになったという現実がその人をおそうことになる。

ようするに、Aさんがガンにならないと言って、ガンにならなかった場合の現実は、Aさんがガンになったことによって、消えてしまうのだ。これが問題なのだ。これが問題なの。

Aさんは「自分はガンにならない」と言ったから、ガンにならないはずなのである。ガンにならないと言ったのに、ガンになった……。

Aさんがこれを正確に理解しているのであれば、「言霊理論は間違っている」ということに気がつくはずなのである。

「言霊理論は間違っているので、自分がガンになると言ったからガンになったという考えたも間違っている」と気がつくはずなのである。

ところが、Aさんは、「自分がガンになるぞ」と言ったということについては気にするけど、「自分はガンにならない」と言ったということは、無視してしまうのだ。

こういう態度が、どうしてしょうじるのかという問題がある。こういう態度は、基本的には、……じつは、言霊理論とは関係がないのである。

だって、「ガンになるぞ」とも言ったけど「ガンにならない」とも言ったのだから、言霊理論とは関係がない話になるのである。

しかし、言ってしまったから、実際にガンになったのではないかという疑念が消えないとする。その場合、Aさんは、不安になる。

Aさんは自分が「ガンにならない」と言ったことを無視して、「自分はガンになるぞ」と言ったというほうを重視してしまう。言霊理論が正しいなら、「ガンにならない」と言えば、癌にならないはずだ。Aさんが言霊主義者なら、Aさんが「ガンにならない」と言った時点で、不安は解消されなければならないのである。

ところが、解消されない場合が多い。


*     *     *

「言ったのではないか」ということが問題になるのは、「なったあと」なのである。ガンになったあと、「自分がガンになると言ったから、ガンになったのではないか」ということが、気になるのである。

そして、別の場合は、言ったときに、気になるのである。

不幸な出来事が、この世の中で実際にあるので、不幸な出来事に関する「抽象的な恐怖」が生じるのである。抽象的な恐怖というのは、具体的な個別の出来事から、つくられるのである。頭のなかにつくられるのである。

ようするに、おぎゃーっと生まれてから、この世で、実際に、「理不尽な出来事」を経験してしまうので、「理不尽な出来事」が「いつ、生じるかわからない」といったタイプの恐怖がうまれるのである。

恐怖と書いたけど、抽象度がもうちょっと高くなって、理由が明らかではないものに関する恐怖は、不安となってあらわれる。ようするに、実際にしょうじてしまう「理不尽な出来事」が、抽象的な不安をつくりだすのである。

*     *     *

ところで、上書きができないということは、『防衛』に失敗したということなのである。たとえば、「なんとか病にならない」と言えば、なんとか病にならないわけだから、ほんとうは、防衛に成功するはずなのである。

幼児的万能感により、気分的に補完されているのだけど、気分的に補完されているだけなので、気分がかわってしまったら、ダメなのである。

小さなことであっても「理不尽な出来事」が実際に発生したことが、気分がかわるきっかけになるのであろう。小さなことでも、「防衛に失敗した」ということが、明らかになってしまうのである。

*     *     *

言うことは、『お札』のようなものなのである。あるいは、『お守り』のようなものなのである。あるいは、強迫神経症者における、強迫行為なのである。

たとえば、言霊理論が正しいなら……「病気にならない」と言うことによって、「病気にならない」ようになるのである。そうなるはずなのである。

ところが、病気になってしまった場合、「言うこと」によって、病気を「おいはらう」ということができなかったということになってしまうのである。ようするに、防衛に失敗したのである。

*     *     *

条件が悪い人の場合は、条件が悪いことによって「不愉快な出来事」が発生することになる。その場合、言霊理論をもっているひとだと、「不安のほうだけつみかさなる」結果になってしまうのである。どうしてかというと、「防衛」に失敗しているからである。

お札が、役に立たないのである。言霊で防衛できるはずなのに、実際には、言霊では防衛できない。ところが、言霊で防衛できるはずだという考え方が残るのである。

だから、切羽詰まった状態になる。 

*     *     *

条件が、中ぐらいの人だと、「不愉快な出来事」だけではなくて「よい出来事」もそれなりに発生するので、「言霊でうまくいった」と誤解できる機会がそれなりにあるということになる。条件が、中ぐらいなのか、悪いのかということは、重要なことなのである。しかし、中ぐらいの人の場合も、「言霊の力でこうなった」と誤解をしているだけなのである。心地の良い誤解ができるので、「言霊」を信じることができるのである。

しかし、条件が悪い人だと、どれだけ言ったって、よくないことが連発で発生するから、実際には、くるしい状態を強いられるのである。そして、言霊理論だ正しいということにこだわっていると、防衛ができない……(防衛に失敗しているにもかかわらず)……言霊的な解決方法を試みるということになってしまうのである。条件は、恒常的に成り立つ条件もあるので、時間の流れを考えると、これは、よくない状態なのである。

「失敗している場合は、言い方が悪い」ということになってしまうのだけど、失敗と、言い方が悪いということは、関係がないことだ。本当にまったく関係がないことなのである。 

2026年2月15日日曜日

●言ったから、なんとか症になったのではない■言霊※2026/02/14 16:10

 たとえば、ガンになった人は「ガンになる」と、言ったから、ガンになったのか。

ちがうね。

言霊主義者が言っていることが正しいなら「ガンになる」と言って、ガンになったということになる。ところが、多くのガン患者が「ガンになる」と言わなかったにもかかわらず、ガンになったのである。

もう、この時点で、言霊理論が間違っているということがわかる。

ガンではないときに「俺は、ガンになるぞ」と突然思って、「俺は、ガンになる」と言ったから、ガンになったのか?

ちがうね。ほかの原因で、ガンになっている。言ったからガンになったのではなくて、ほかの原因でガンになっている。

ガンだけではない。ほかの病気にもあてはまる。

「なんとか症」というような場合でも、あてはまる。 なんとか症ではないときに、「なんとしても、わたしは、なんとか症になる」と言って、なんとか症になったのか?

ちがうねーー。

言ったから、なんとか症になったのではないのである。

だいたい、言ったから、なんとか症になるという理論が正しいなら、なんとか症になった人は、みんな、過去のある時点において「わたしはなんとか症になる」と言ったということになる。

そして、ほかの原因ではなくて「言った」ということが、原因でなんとか症になっていなければならないということになる。

なんとか症になると言わなかった人が、なんとか症になっている時点で、言霊理論は間違っているということがわかる。

間違ったことを言って、ほかの人を不幸にするのは、よくない行いだ。言われたほうは、「気になる」場合がある。

その場合、言われなければ、発生しなかった「不安」がしょうじる。これが悪いことでなくて、なんだ?

*     *     *

たとえば、ガンになりたい人が、「自分はガンになる」と言ったあと、発がん性があるとされる食べ物をいっぱい食べて、ガンになったとする。言霊主義者は、発がん性があるとされる食べ物をいっぱい食べたということは、無視して「自分はガンになる」と言ったから、ガンになったのだと考えてしまう。

これは、恐怖をさそう考え方なのである。これは、感じ方でもある。

ようするに、そういうふうに言うと、なんだかわからない神秘的な力によって、そうなってしまうという危惧あるのだ。これが、猛烈に強くあらわれると、ある種の神経症になる。

言ってしまったということが、気になるということや、言わないように気をつけているけど、言ってしまうかもしれないという不安が(頭のなかを駆け巡って)消えないということになる。

これは、人間の脳のしくみだ。

理不尽なことが起こる……ということについて、なんらかの「原始的な」理由をつけないと、安心できないのだ。「脳のしくみ」が……これまた……「言ってしまうのではないか」というような不安を引き起こすのである。

*     *     * 

逆に、たとえば、「このくらいジュースを飲んだって、糖尿病にならない」と思って、ジュースを飲んでいたのだけど、ある日、会社の健康診断で糖尿病の疑いがあるということが指摘され、実際に検査をしたら糖尿病だったことが明らかになったということについて考えてみよう。

「このくらいジュースを飲んだって、糖尿病にならない」と思っていたのに、糖尿病になったのである。これは、言霊ではなくて、思霊なのだ。思霊理論に従えば「思ったことが現実化される」ので「糖尿病になる」と思った人が、糖尿病になるのである。

どうして、「このくらいジュースを飲んだって、糖尿病にならない」と思った人が、糖尿病なるのか? この場合、ジュースを飲みすぎたから、糖尿病になったのである。

「自分は糖尿病になる」と思わなかったのに、糖尿病になった。

思霊理論も、間違っている。

思ったことが現実化するなら、「糖尿病になった人」は、みんな、過去のある時点で「自分は糖尿病になる」と思ったことがあるということになる。

ところが、多くの糖尿病の人は、「このくらいなら大丈夫だ」「自分は糖尿病にならない」と思っていたのに、糖尿病になったのである。

糖尿病になろうと思っても、糖尿病になるような具体的な物理的な理由がないと、糖尿病になれないのである。

ガンの場合もおなじだ。

どれだけ「ガンになるぞ」と頑張って言ってみても、ガンになるような具体的な物理的な理由がないと、ガンになれないのだ。 

2026年2月14日土曜日

●うまくいかなかった人の悪口を言うということが、決まっている■言霊※2026/02/14 15:48

 たとえばの話だけど「言い方が悪いから、ダメなんだ」と言霊主義者が、条件が悪い人に言ったとする。「言い方が悪いから、ダメなんだ」というのは、「言い方が悪いから、言ったことが現実化しなかった」という意味だ。

ところで、精神世界の人というのは、「ネガティブなことを言うべきではない」と考えているのだ。言霊主義者だって「ネガティブなことを言うべきではない」と考えているだろう。

しかし、「言い方が悪いから、ダメなんだ」という発言は、ネガティブな発言なのである。この、自分が他人をせめるときは、なにを言っても、ネガティブな発言ではないと考える傾向というのは、なんなんだろう。

たぶん、これは、鈍感力と関係していると思う。しかも、条件が悪い人は、条件が悪いから発生する「不愉快なこと」を経験している。その不愉快なことというのは、「よくなる」と言ったって、条件がかわらないと、高頻度で、高確率で発生することになのである。

なので、言霊主義者はまったく役に立たないことを、言っているということになる。そして、ほんとうは、言霊主義者が言っていることが間違っているから、言ったところで、(条件が悪い人の現実が)かわらないのに、言霊主義者は、条件が悪い人の「言い方のせいにする」のだ。

これは、決まっていることだ。

最初から、決まっていることなんだよ。

ようするに、妄想に従って、間違ったことを言うということと、相手の身に効果があらわれなかったら、相手のせいにして相手を悪く言うということが決まっている。

これ、「相手のやり方がへたっぴだから、うまくいかなかったのだ」と言うことは、ネガティブなことではないのである。言霊主義者にとってはネガティブなことではないのである。

これだって、ほんとうは、ネガティブなことだ。言霊主義者の場合は、うまくいかなかった人の悪口を言うということが、決まっているのである。

言霊主義者は精神世界の人である場合が多いけど、言霊主義者であって精神世界の人である人は、条件が悪い人の悪口を平気で言うのである。

ところが、本人は、「悪口を言った」と言う自覚がないのである。ようするに、「悪口を言った」と言う認識がない。

けど、悪口を言っている。しかも、もともと、現実的ではない方法を説明して、説明されたほうが現実化できないと、説明されたほうのせいにしてしまうのだ。

これが、ネガティブな行為でなくて、なんだ? 

*     *     * 

あと、助言をした言霊主義者が、同時に、自己責任論者であった場合の話を、ちょっとしておく。自分が助言したとおりにならなかったのは、自分の責任だとは思わないのか?

「すべては、自己責任」なのだろ。この場合の「自己責任」というのは、「自分の責任である」ということだ。相手が言ったとおりにしたのに、相手の身に、自分が言ったとおりのことが起こらなかった……。自分の責任だろ。

すべては、自己責任なのだから、言った通りのことが起こらなかったのは、言った人の責任だ。

自己責任論者が、条件が悪い人に言っていることというのは、こういうレベルのことなんだよ。その人の責任ではないことまで、その人のせいにしてしまう。こういう都合がいい理論が、自己責任論だ。

言いがかりレベルの自己責任論を振り回すな!! 

●「こころがおちて、冗談やギャグに反応できない状態」■社会※2026/02/14 14:48

むかし、精肉加工・なんとかハム工場のバイトをしたことがある。

おなじ時期にバイトに入った人をAさんとしておく。正社員の人をBさんとしておく。

基本、ぼくが、ヘビメタ騒音で、ジョーーダンやギャグに反応できなくなったという話だ。

ぼくが、正社員の人から、ある場所の仕事を指定されて、バイト仲間のAさんが別の場所の仕事を指定された。で、ぼくが指定された場所の仕事(Xの仕事)が、いやだったんだよ。苦手だったの……。

で、社員のBさんがいなくなったときに、なんか、ちょっと、バイト仲間のAさんと話をする時間があり、そのときに、バイト仲間のAさんに、「この指定された場所の仕事(Xの仕事)はいやだな」と(ぼくが)言ったわけ。

そのあと、ぼくが、「別の場所(Yの仕事)」の仕事を任されたわけ。

でっ、「別の場所(Yの仕事)」の仕事は、楽だった。

ところが、「別の場所(Yの仕事)」の仕事から、また、「前のいやな仕事場所の仕事(Xの仕事)」に移動させられたわけ。

そうしたら、ぼくが、その仕事(Xの仕事)をきらっているということを知っている、バイト仲間のAさんが……大阪漫才のようなノリでぼくのほうを指さして、大げさに笑うアクションを(何回も)したわけ。

で、そのとき、社員のBさんが、ぼくに「なんで、あいつ笑っているの」と訊いたわけ。でっ、ぼくは、説明する気になれず、「知りません」とこたえた。

「ぼくがその場所の仕事(Xの仕事)をいやがっている」ということを、社員のBさんに説明するのがいやだったのだけど、その話をしないと、どうして、バイト仲間のAさんが、ぼくのことを、見て大げさに笑っているのかを、説明できないのだ。

バイト仲間のAさんとしては、これまた、大阪漫才のようなノリで「うるさいなぁ。笑うな。ぼけーー」みたいなリアクションがほしかったみたいなんだよな。「いらん・いらん」という感じで、手をピピっとふるようなアクションがあればもっとよかったのかもしれない。

ともかく、Aさんとしては、そういう感じのアクションを返してほしかったのだと思う。

けど、ぼくは、ヘビメタ騒音でつかれまくっていて、そんな元気がないのだ。

これ、もう、小学六年生のころから、ヘビメタ騒音が毎日、鳴って、そのときは二一歳ぐらいだったので、一〇年間ぐらいずっと、ヘビメタ騒音を鳴らされていたということになる。早生まれなので、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めたとき、ぼくは一一歳だった。

なので、一日でも大変なヘビメタ騒音が、一〇年間毎日積もっていたので、そんな状態ではないのだ。

「こころがおちる」というのがある。

これも、「どれだけつかれていても元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる相手にはわからないことなのだけど、ほんとうに、一日でも、「こころがおちる」のである。

それがずっと毎日続いていたのだから、落ちまくりなのである。まあ、ともかく、もう、ヘビメタが鳴り始めて、何年間もたつと……基本、相手の冗談やギャグに対応できなくなってしまうのである。

それから、「どれだけ、つらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということを言う人たちには、わからないことなのだけど、明るくふるまっても、いいことがないのである。これ、ちがうんだよ。きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえの「不幸度」「いやなことが起こる頻度」と、きちがいヘビメタ騒音期間中と、きちがいヘビメタ騒音後の「不幸度」「いやなことが起こる頻度」があまりにもちがいすぎるのである。

きちがい親父がきちがい行為をするので、ヘビメタ騒音がはじまるまえから「不幸度」が普通の人よりも、高い状態で暮らしていた。

けど、それでも、冗談やギャグには普通に対応できていたのである。「こころがおちて、冗談やギャグに反応できない状態」ではなかった。

それが、きちがいヘビメタ騒音の連続で、くだけちって、反応できない状態になったのである。

ほかの人が言う……言霊的な発言だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえなら「そうですね」ぐらいの反応はできた。

言霊的な発言をする人は、ヘビメタ騒音前のぼくの感覚で生きているのだと思う。

これ、ほんとうに、ちがうんだよ。そして、不幸でも明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある……というような(考え方)も、ぜんぜん、成り立たなくなってしまうのである。

これも……この感覚も、きちがいヘビメタ騒音以前の状態とおなじレベルで暮らしている人には、わからないと思う。

けど、言霊主義者や普通の人は、みんな「自分だって苦労した」ということを言うのである。それは……「不幸でも明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある」……というような(考え方)を保持できるような苦労なのである。

そういうレベルの「いやなこと」なのである。

基本的には……「明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある」という考え方は間違っている。これ、条件を無視している。「運があがって」という部分を入れて書いたけど、明るい言葉を使って、明るくふるまえば、いいことがあるとは、言えないのだ。

一〇〇%詐欺になってしまう。たとえ、「明るい言葉を使って、明るくふるまったらいいことがあった」としても、明るい言葉を使って、明るくふるまえば、いいことがあるとは、言えないのだ。いいことがない場合だってあるし、悪いことが起こる場合だってあるのだ。

法則性があるようなことを言うべきではない。

2026年2月13日金曜日

●長期ヘビメタ騒音生活をしていないからわからないだけ■騒音※2026/02/13 23:34

なんかいろいろと、細かいことを思い出してしまうんだよ。それも、トラブル関係の記憶だ。ヘビメタ騒音の影響で、基本的な立場が悪くなるのである。でっ、ほかの人に、長期騒音のことを言っても、通じないのである。履歴的にも、よくない状態になる。実際には、通勤通学ができない体になっていたのだけど、ヘビメタ騒音でそうなるということを、理解しない人たちが、めちゃくちゃなことを、ぼくに言ってくるのである。これ、たしかにやられていない人にとってみれば「理由にならないこと」なのだけど、理由になるんだよ。やられていないからわからないだけなんだよ。長期ヘビメタ騒音生活をしていないからわからないだけなんだよ。

●他人を対象としたスピリチュアリズム■社会※2026/02/13 15:30

もう、何回か書いているけど、自分を対象としたスピリチュアリズムは、どんどんやってもらって、かまわない。あくまでも、自分を対象とした場合の話だ。

自己責任論とおなじなのだけど、自己責任論には、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論がある。他人を対象とした自己責任論にかたよると、他人の条件を無視して、(他人に)無理なことを言うようになる。

もう、決まっているんだよ。

努力論もおなじだ。

自分を対象とした努力論なら、場合によっては、プラスに働くこともある。けど、これは、悪魔側が提示した考え方なので、じつは、しっぺ返し?をくらうことになる。

努力すれば成功すると、会社のなかで、頑張って働いてきたのに、定年退職したら、自分のうちなのに、自分の居場所がなくなっているというようなことが発生する。

じつは、今まで言っていたことを、ひっくり返すようだけど、自分を対象にした自己責任論の場合も、しっぺ返しを食らうことになる。自分を対象としたスピリチュアリズムでも、なぜか、しっぺ返しを食らうことになるのだ。

けど、しっぺ返しをくらうことになるとしても、他人を対象としたスピリチュアリズムよりも、よいものなのだ。

他人を対象としたスピリチュアリズムというのは、本人はいい気分になるかもしれないけど、他人を、こまらせることになる。他人に不愉快な感覚を与えるものなのである。

スピリチュアリズムというのは、悪魔側が提示した考え方なので、そうなってしまうのである。

だいたい、自分を対象としたスピリチュアリズムと、他人を対象としたスピリチュアリズムを区別しているスピリチュアリストなんて、めったにいない。

どうしてかというと、「真実」として語られるからだ。「宇宙をつらぬく法則」として語られるからだ。

神がもたらしたものとして語られるからだ。

ところが、じつは、悪魔がもたらしたものなのだ。なので、じつは、ひっくりかえってしまうのである。

*     *     * 

たとえば、みんなことを(他人のこと)愛するということを考えてみよう。みんなというのは、具体的な他者ではなくて、みんなという集合体なのだ。ひとかたまりで、みんなということになっている。その場合は、観念によるものになるのである。

しかし、具体的な個人というのは、具体的な個人として……たとえば、そのひとのまわりに現在しているのである。

たとえば、言霊的なことを考えているとき、しあわせになるとしよう。気分的にしあわせを感じるということだ。 前向きなことを言うと、前向きな気持ちになるとする。

本人は、それでいい。

しかし、他人に対して、言霊的な助言?をする場合は、かならず、他人の条件を無視して、言霊的な助言をすることになるのである。これは、相手をくるしめることであって、相手をしあわせにすることではない。

ここで、逆転が起きてしまう。ひっくりかえってしまう。

しかし、言霊主義者が、それに気がつくことは、めったにないのである。どうしてかというと、言霊主義者のなかでは、言霊原理は正しいということになっているからだ。その言霊主義者のなかで、言霊原理が正しいということになっているので、当然、自分が相手に言った内容も正しいということになるし、自分の行いも正しいということになってしまう。

たとえば、相手に言霊的な助言をすることも、愛の実践だと思ってしまうのである。他人のことを愛しているからこそ、他人のために、言霊主義的な考え方をおしえてあげるということになるのである。

これが、言霊主義者にとって、愛の実践でなくて、なんだ。

ところが、対象になった人は、不愉快な思いを経験することがある。

どうしてかというと、相手には、現実的な条件があるからだ。相手の条件が悪い場合は、不可避的に、不愉快な思いをすることになるのである。

言霊的な助言をされて、明るい気持ちになる場合は、だまされている場合だけなのだ。

そして、その人(助言された人)も、言霊主義者とおなじように、誤認して、言霊理論が正しいと思った場合だけなのだ。

こういう場合だってあるけど、それは、さらなる、誤解をうみだすのである。そして、この人……言霊理論を信じるようになった人も、他人に対して、言霊的な助言をするようになる。

言霊理論が正しいと感じる場合は、「言ったあと」と「言ったから」の区別がついていない場合が多い。区別がついていないから、「言ったあと」「言ったことが起こる(現実化する)」と、言霊理論が正しいと誤解するようになる。

けど、誤解だ。誤解なんだよ。

神様の力のような「なにかそれ」を想定して考えると、言霊の力によってそうなったと考えてしまうのだけど、ちがうのだ。言霊的な考え方というのは、幼児的な考え方で、だれにも、なじみがある考え方なのだ。

だから、それを、悪魔に利用されているにすぎない。

悪魔側の主な目的は、人(普通の人)に、条件が悪い人を攻撃させることだ。そうすると、トラブルが生じて、憎悪がしょうじるのである。言った側には慢心が生じて、言われた側には、憎悪がしょうじることになるのである。おわかりか?

普通の人は、言霊原理が正しいと思うと、ごくごく普通に、他人に言霊的な助言をするようになる。そういう「ひとのせいしつ」を、悪魔が利用しただけなのだ。

悪魔は、人がそういう存在であるということを理解している。悪魔がゲットするのは、トラブルと、憎悪と、慢心だ。

悪魔は、人間観のトラブルが大好きなのだ。悪魔は、人間のトラブルを見るとわくわくしてしまうのだ。言霊主義者が幼児的万能感に支えられた幼稚な理論に振り回されて、『悪事』を働いてしまうのである。

「言った通りになればいい」というのは、人間の存在に必要な気持ちだ。だから、別に、自分のなかで、そう思うことは、とめられない。しかし、原理として「言ったことが弦自活する」ということを、他人に言うのはよくないことだ。 

2026年2月12日木曜日

●疲労を引き起こしている原因が、普通の原因ではないのである■騒音※2026/02/12 3:59

きちがいヘビメタが鳴って、夜、眠るべき時間に眠れない場合の、眠れない状態というのが、ひどいのである。どういうふうにひどいかというと、金縛りにあったように動けない状態なのである。

けど、なんとか動ける状態になるときがあり、その状態のとき動くと、めちゃくちゃに、くるしいのである。眠るべき時間の長さというのが、八時間だとする。

その場合、六時間、七時間が、動けない状態なのである。その六時間のあいだに、あるいは、その七時間のあいだに、なんとか、動けるときがある。けど、それは、本格的に動けるわけではなくて、その時間に勉強をするということは、到底できない。

歯磨きだって、できない。なんとか、ものすごくしんどい状態で、トイレに行くということが、できる時間が……わずかに……隙間時間的に……あるけど、だから、起きて普通に勉強できるかというとちがうのである。

ともかく、もともとの、疲労を引き起こしている原因が、普通の原因ではないのである。あれだけでかい、きちがいヘビメタ騒音に……何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も……さられ続けるということが、どういうことなのか、わかっていない人が多すぎる。

そもそも、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、経験したことがない汚染された時間なのである。発狂・汚染状態なのである。切羽詰まった・混濁した状態なのである。

ぼくだって・兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえに、騒音を経験した。普通の人が、経験している騒音というのは、兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえに、ぼくが経験した騒音と同程度なのである……と思う。

けど、ぼくの経験の範囲だと、みんな「自分だって騒音ぐらい経験したことがある」と言うんだよな。そして、俺を「弱い人間だ」と決めつけてくる。「(自分だって騒音経験はあるけど)自分は、それでも働いている」「だから、エイリだって働ける」と思ってしまう。

けど、そのように言う人は、兄貴のヘビメタ騒音がはじまってからの生活と同等の生活をまったく経験していない。

経験していないから、誤解して、間違ったことを、堂々と言えるだけだ。ぜんぜん、ちがう。

けど、俺がどれだけ「ぜんぜん、ちがう」ということを言っても、相手は、認めない。ぼくの経験の範囲で言うと、(そういうことを言う人は)みんながみんな、認めなかった。

●まったくちがうことが「働く」という言葉で表現されている■社会※2026/02/12 4:02

有利な人にとって働くということがどういうことかというと、勝てるゲームをやっているようなものなのである。勝ちやすいゲームと言ったほうが、正確かな。

ともかく、有利な人にとって働くということは、楽しいゲームをやっているようなものなのである。

だから、こういう人たちのことを、念頭に置いて、「働く」ということについて考えても、しかたがない部分がある。

どうしてかというと、不利な人は、働きにくいからである。

不利な人がやっていることと、有利な人がやっていることがまったくちがうのである。まったくちがうことが「働く」という言葉で表現されているのである。

この、ちがいを無視して、「働くとは」ということについて考えてみたって、しかたがない。

ところが、「働くということについて考えてみよう」という場合は、働いていない人に説教する文脈で「働くということについて考えてみよう」と言っている場合が多いのである。

これが、こまったことなんだけど、こういうことを言う人は、「働く」という内容が、有利な人と、不利な人で、ぜんぜんちがうのだということに、気がついていない。

そりゃ、楽しいゲームをやるのと、つまらないゲームをやるのでは、話がちがう。ところが、条件を考えないで、精神論で乗り切ろうとするのである。

ようするに「つまらないゲームだって、楽しいと言えば楽しくなる」というような妄想的なことを言うのである。ポジティブ言葉を使っていれば、つまらないゲームをやっていたって、楽しいゲームをやっているときのように、ポジティブな状態になれると言うのである。

こんなの、暴言。

「妄想も、たいがいにしろ」と言いたくなる。

●健康であることは、重要なのだ■社会※2026/02/12 3:01

二〇歳の時にくらべれば、おカネをもっている。これが、だいぶちがうんだよね。失ったものは、あるけど、得たものもある。おカネ……。

あと、二〇歳の時にもっていなかったけど、今は持っているものは、クレジットカードだ。これも、カネ関係か……。あの時は、ほんとうにくるしかった。くるしかった。

「働く」ということについて、ちょっとだけ書いておく。「働く」ということを考える場合「働く」という文字を使うことによって、抽象化されてしまうのである。具体的な内容は、捨象されてしまうのである。

「働く」というのは、じつは、個々人の条件が、一番とは言わないまでも……かなり反映されるところなのである。ようするに、個人によって、「働く」と言っても、「働く内容」がちがうのである。

なので、まったく別のことについて、話しているということがよく、しょうじる。

*     *     *

金持ちというのも、人それぞれに、ちがった意味で使っているので、金持ちの定義から始めなければならないのだけど、特権階級的な金持ちは、基本的に、働くのが楽なのである。

まず、健康であることは、重要なのだ。働くとき、どうやって働くのかというと、自分の身体を動かして働くわけだから、健康というのは、重要なのである。働いているあいだ、つねに、いたいところがある場合は、問題がある。

楽しくは働けない。

それとおなじように、身体的なだるさというのも、問題がある。だるさにも、程度がある。ぼくの場合、きちがいヘビメタ騒音によって、ひどいだるさを経験するようになった。

睡眠回路がこわされた。そして、睡眠回路以外の回路も、実際にこわされたと思う。

手短に言うと、働いているあいだ、つねに、身体的にだるいので、おもしろくないのである。楽じゃないのである。根性論だと、個人の「だるさ」というのは、無視される。

「俺だってつかれている」と一言いえば、きちがいヘビメタ騒音が毎日続くという、異常な出来事によって引きこおこされた「だるさ」も、普通の人間が日常生活の中で感じるだるさも「おなじ程度のだるさだ」ということになってしまう。

「俺だってつかれている」と言っている人の「つかれ」とぼくが、感じている「つかれ」はちがうのである。

「だるさ」と「つかれ」で、表現はちがうけど、めちゃくちゃにつかれている状態は、だるい状態とほぼおなじ状態になる。

だるい状態というのは、つかれた状態のうえに、さらに、病的な不快がつみかさなっている状態なのである。

ここちよい「つかれ」はあるけど、ここちよい「だるさ」はない……と言ってみたくなる。

ともかく、だるさというのは、ここち悪いつかれの、上位バージョンなのである。だるさのほうが、つかれよりも、悪いほうに、傾いているのである。

2026年2月10日火曜日

●「きれいごとのルール」は、無視されることになる■社会※2026/02/10 19:45

たとえば、一〇〇人の村があるとする。その一〇〇人がみんな、「人がいやがることはするべきではない」と考えていたとする。

そうなると、人がいやがることをする人がいないような感じになるのだけど、そうとは、限らないのである。

たとえば、「仕事の場合は、人がいやがることをしてもいい」ということになっていると、仕事をしている人は、仕事中は、人がいやがることをしてもいいということになるので、人がいやがることをする場合もあるということになる。

「何時から何時まで仕事をしなければならない」というルールがあるとする。そうすると、その仕事をしたくない人も、仕事をおしつけなければならなくなるのである。

そして、「仕事中は、部下に命令をしてもいい」というルールがあるとする。

そうすると、部下がいやがる仕事をおしつけてもいいということになるのである。何時までにこの仕事をやってくれと命令してもいいということになるのである。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。AさんもBさんも「人がいやがることはするべきではない」と考えているとする。AさんがBさんの上司だとする。

Aさんは、仕事中であれば、Bさんがいやがることを命令してもいいということになるのだ。Bさんがこの仕事はやりたくないと思っていても、そんなのは、関係なしに命令するだろう。

いちいち、Bさんがいやがっているかどうかということを、気にしていたら、仕事ができないということになるのであれば、Bさんがいやがることだって、命令するだろう。

個々の具体的な「お題目」がどれだけきれいで、どれだけ、人を納得させるものであったとしても、実際の場面では、それが成り立たないということはある。

あるカルト宗教の人が、「教祖は、悪い人だけど、教えは正しい」と言ったとする。教えというのが、一〇項目ぐらいあったとする。その一〇項目を、すべての人が理解したとしても、いいことにはならないのだ。

この人たちは、実際の認知や、実際のメタ認知を無視している。

ようするに、場面的に成り立っているルールだ。

「仕事中なら、部下に命令してもいい」というルールがあるなら、「人がいやがることはしないようにしよう」と思っている人だって、部下がいやがることをする場合がある。

これが、例外かというと、そうでないのだ。

さまざまなところに、「きれいごとのルール」よりも、重要なルールが成り立っていて、重要なルールのほうが優先されると、「きれいごとのルール」は、無視されることになるのである。

その場面で、無視されることになる。

「(きれいごとのルールに関して)これは、正しい」と心底思っていたとしても、別の上位のルールがあるなら、ちゃんと、その(きれいごとのお題目)は無視されることになるのだ。

だから、みんながみんな、心底、きれいごとのルールを理解すれば、いい世界になるというのは、間違った考え方なのである。

その場面場面で、もっと優先されるルールが成り立っていると、きれいごとのルールは、無視されることになるので、「きれいごとのルールについて」どれだけ、説教をしても無駄だということになる。「きれいごとのルールを」理解した人がどれだけ、増えても無駄だということになる。

実際には、説教をするほうだって、メタ認知的に優先するルールを優先して、きれいごとのルールを無視することがある。無視する状態が、普通の状態であり、きれいごとのルールにこだわって、優先するルールを優先できないのであれば、社会不適合になってしまうのである。

どうしてかというと、社会の場面というのは、現実的な場面の組み合わせだからだ。

現実的な場面において、まわりの人が普通に優先しているルールを優先せずに、きれいごとのルールを優先すると、その場面に適応できなくなってしまう。

適応できない場面が増えれば、社会不適合になってしまう。そして、仕事というのは、そういう個別的な場面の連続を含んでいるものなので、(きれいごとのルールにこだわっている人は)社会不適合になってしまうのである。

きれいごとのルール(きれいごとのお題目)について、人に説得をしている人が、社会不適合にならないのは、鈍感力が優れているからなのである。社会の場面で、実際には、きれいごとのルールを本人が無視しているのに、無視しているということ自体に気がつかないので、本人は、適応できるのある。

だから、いやがっている人にも、宗教の宣伝ができるのである。きれいごとを実行していないからこそ、宗教の勧誘ができるのである。

しかし、今回言いたいのは、宗教の勧誘のことではない。ありとあらゆる仕事のことだ。

ありとあらゆる仕事にも、宗教の勧誘のように、きれいごとのルールを無視しなければならない状態がある。

その状態を無視しているから、本人はきれいごとのルールについて……『これは正しい』と思っている状態を保持できるのだ。

これが、感づいてしまう人だったら、すぐに、疑問を感じて、場面に適応できなくなってしまう。

運用レベルで実行するつもりである人であって、なおかつ明晰な人(鈍感力がない人)は、すぐに、自分がきれいごとのルールを無視しなければ、場面に適応できないということに気がついてしまう。

2026年2月9日月曜日

●「エイリは、かわらないから、自分をかえるしかない」■言霊※2026/01/31 21:25

言霊主義者も言霊主義者で、ぜんぜんわかっていない。そして、きちがい兄貴ほど頑固じゃないけど、言霊主義者だって頑固なのだ。

そして、言霊主義者は、精神世界の人である確率が高いけど、精神世界の人は、「ヒトゴトであれば」……「人はかわからないから自分を変えるしかない」とか「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。

けど、案外、頑固なのである。

ぼくが知る範囲では、精神世界の人は、「エイリは、かわらないから、自分をかえるしかない」と言霊に関する考え方をかえようとは、しなかった。

エイリの主張に合わせて「言霊理論は間違っている」と思うようにするということは、しなかった。

エイリが、言霊理論を否定したあとも「言霊は絶対」「理屈じゃねぇーんだよ」「アバウトでいいんだ」「だいたいあっていればあっているんだよ」と意地を張って認めなかったのである。

自分自身が「自分が言ったこと」を実行できているかというと、できていないのである。

「すべては受け止め方の問題だ。だから、受け止め方をかえればいいのだ」と考えて「言霊理論が間違っている」ということを正しいと受け止めなおすということをしてくれなかったのだ。

「なんだとおぉ」「俺が元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊(理論)は正しい」「心理学の実験でも証明されている」と言って、言霊理論が正しいということにこだわりまくって、言霊理論に関する受け止め方をかえてはくれなかった。

*     *     *

運用の問題ということを、ぼくは、言った。これは、ルールの優先順位が気分次第で変わってしまうことや、ルールの優先順位が高いほうが、ルールの優先順位が低いほうより優先するので、優先時トンがい低いルールは、なかったことになってしまうということだ。

「人がいやがることはやめましょう」と言ったって、「真実を知らない人たちを導くことはいいことだ」と思っていれば、「人がいやがる勧誘をする」のだ。「人がいやがることはしないようにする」というルールよりも、「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが重要だと(自我が)判断したので、そうしているのである。

一つ一つのこと(教え)に納得していたとしても、実際の運用の場面では、そんなことはまったく気にしないで、教えを破るのである。教えを破っているということについても、気がつかない。そりゃ、 「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが「人がいやがることをしない」ということよりも、重要だからだ。

「真実を知らない人たちを導く」ときは、相手がいやがっても、しつこく勧誘してもよいのである。いや、むしろ、「相手が嫌がっている」ということを無視して、頑固に勧誘するべきなのである。そうなると、「人がいやがることをしない」ということは、どこかに行ってしまう。

ルールとルールの上下関係について述べたけど、実際には、ルールと「正しいと思うこと」の間にも、上下関係が成り立っている。ルールだって、正しいルールだと思っているから、従おうと思うわけだろ。

けど、「言霊は絶対だ」「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということを信じている人たちは、それが、正しいことだと思っている。

「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのは、ルールではないけど、「正しい」と思っている人にとっては、「正しいこと」になる。正しいことを否定されたときも、(相手をかえるのではなくて、自分をかえる)というルールに従うことができるのかということが、問われているのである。その場合、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればいい」というルールよりも、 「正しいと思うこと」のほうが優先するということなのである。そして、これも、自我を構成するルールの一部なのである。

たいていの精神世界の人は……「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールを優先して、「自分が間違っていたのだと」と思わないのである。

何度も言うけど、これは、 「自分が正しい」と思うことのほうが、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも優先されているということだ。

自我は、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先しているのである。

そして、何度も言うけど、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先するということも、自我を構成するルールのひとつなのだ。

2026年2月8日日曜日

●きちがい兄貴のやり方が、異常なのだ■騒音※2026/02/08 10:17

きちがい兄貴のやり方が、異常なのだ。だから、ほかの人は、(うちの)きちがい兄貴のようなやり方で、やられたことがない。ほかの人の家族は、(うちの)きちがい兄貴のような感覚をもっていない。だから、ほかの人の家族は、(うちの)きちがい兄貴のような感覚をもった家族にやられたことがないということになる。そうすると(この人たちは)みんな、経験がないので、ヘビメタ騒音の影響を過小評価することになるのである。

2026年2月6日金曜日

●次の日もそれが続く……■騒音※2026/02/06 15:36

  ほんとうに、いろいろと不愉快な記憶がよみがえってくる。どうして、不愉快な記憶のほうが、残るのだろう。楽しい記憶だってあったはずなのに、なんか、蜃気楼のように消えてしまった。不愉快な記憶に関しては、リアルなのである。そのまま、感情が再現・再生されてしまう。

基本、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音にやられるということは、(ぼく自身が)ダメ人間側にシフトにするということなのである。どうしてかというと、実際に、鳴らされているあいだ、くるしいし、鳴らされたあと、眠れなくなって睡眠時間を確保できなくなるからだ。寝不足で動いているときの、不愉快な気持ちといったらない。実際に、不愉快な出来事が、(ちゃんと眠れる場合よりも)多く発生してしまうのである。そして、次の日もそれが続く。次の日もそれが続く……のは、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを最大音量で鳴らすことをあきらめずに、最大音量で鳴らしているからだ。強制的に、腹が立つし、強制的に睡眠時間が減らされるのである。しかし、ほかの人は、ぼくではないので、「強制的に睡眠時間が減らされるということはない」と考えるのだ。鳴り終わったら関係がない」と考えるのだから、そう考える。ところが、強制的に、睡眠時間が減らされる。強制的に、睡眠質が悪くなる。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音にさらされて、発狂した状態で、すごさなければならないからだ。よその人は、自分が、きちがい家族の騒音に毎日さらされている我毛はないので……毎日長時間さらされているわけではないので……強制的に「発狂した状態になる」「字尋常じゃないほど、張り詰めて腹が立った状態になる」ということも、否定してしまう。どれだけ鳴ってたって、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのだ。そんなのは、自己責任なのだ。腹を立てるからダメなんだ」と言ってくる。けど、そいつが、そいつのきらいな音に、あれだけ長しい時間さらされたら、腹が立つと思う。そして、その音源である家族が、きちがい的な感覚をもっているやつであれば、それも、腹が立つのである。けど、やられていない人は「自分なら腹を立てない」「そりゃ、ちょっとは不愉快かもしれないけど、鳴り終わったら眠れる」と考えて、俺に無理なことを言ってくる。 

きちがい兄貴は、ぼくの立場が……なるくなるようになくなるように、ふるまっているのである。きちがい的な頑固さで、よそのうちでは一分間だって鳴らせないような騒音を鳴らす。どれだけ、俺が、きちがい兄貴、きちがい兄貴の騒音と自分の身に起こったことの関係を話したって、きちがい兄貴は……思いっきり鳴らしたいだけなので……認めないのである。一秒間だって、ゆずりたくないのである。自分が「屈服して」弟のために、ほんとうに我慢しなければならないとなったら、それこそ、発狂してしまうのである。そういうテンションの高さがあるのである。しかし、本人は毎日、「一秒も譲らない状態」で鳴らしているので、気がつかないのである。これをひっくり返すとなると、ほんとうに、殺さなければならなくなるのである。こっちは、こっちで、そういうテンションの高さで、不愉快ないのである。『やっていられない状態』なのである。毎日がそうなんだよ。影響がないわけないだろ。

ところが、「自分なら影響なんて受けない」と思っているやつらが、無理なことを言ってくるのだ。そいつらが、俺に無理なことを言えるのは、そいつらが実際に、やられていないからだ。実際にやられたら「自分なら影響なんて受けない」というバカな思考は粉砕される。こいつらは、想像力がないバカだから「自分なら影響なんて受けない」と思っている。けど、実際に、そいつらのまわりには、きちがい兄貴のような思考をもった人間がいないわけだから、やられないのである。きちがい兄貴のような家族がいないから、きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な意地でやることで悩んでいないだけなのに、自分のほうが(エイリよりずっとすごい人間だ)と思っているのである。きちがい兄貴のような家族がいない。きちがい兄貴のような家族が(自分の周りにいないので)きちがい兄貴のような家族が(きちがい的な意地で)やることの影響を受けていないだけなのに、自分のほうが(影響を受けているエイリよりも)ずっと、すぐれていると思い込んでいある。こういうやつらの態度は、実際にぼくが、きちがい兄貴のきちがい行為の影響を受けているということから発生するのである。もっと言えば、こういうやつらの態度は、実際に、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な音を鳴らしているということから発生するのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な音を鳴らしていなければ、俺は、こいつらから、無理なことを言われないですむ。こいつらの常識的な思考というのは、実際にやられていないから「自分なら影響を受けないだろう」という仮定のもとに成り立っている。

もう、かさなりすぎた。 

2026年2月5日木曜日

●矛盾があるのだけど、本人は気がつかないままなのだ■言霊※2026/02/05 4:59

どれだけ頑固な言霊主義者だって、自分がカレーライスを食べたいときは、言霊の力でカレーライスを出現させようとは思わないのだ。

どれだけ頑固な言霊主義者だって、レトルトカレーをご飯の上にかけたり、自分でカレーをつくってご飯の上にかけたり、同居しているほかの人にカレーライスを作ってもらったり、カレーライスを食べさせてくれる店に行ったりして、カレーライスを食べるのだ。

「ざく切りのジャガイモのが入ったカレーライスが皿に盛られた状態で、このテーブルの上のどこかに、出現する」と言って、カレーライスを食べようとしない。

「三秒以内に」というような言葉をつけると、言霊なんて嘘だということがわかってしまうので、三秒以内にというような時間を制限するような言葉はつけないで、言霊は主義者は「現実化させたいこと」を言うことが多い。

いつか、どこかで、「皿に盛られたざく切りのジャガイモのが入ったカレーライス」を食べたら、「言ったから、願いがかなった」と思ってしまう。

言霊の力によって、「皿に盛られたざく切りのジャガイモのが入ったカレーライス」を食べられたということにしてしまう。インチキだ。

たいていの場合、本人がそう思ったとしても、だれも文句を言わない。

確信している状態が続く。

しかし、どれだけ頑固な言霊主義者だって、自分がカレーライスを食べたいときは、「三秒以内に、ざく切りのジャガイモのが入ったカレーライスが皿に盛られた状態で、このテーブルの上のどこかに、出現する」と言って、カレーライスを出現させようとは思わないのだ。

どうしてかというと、ほんとうは、言ったって、そんなことは、現実化しないということを知っているからだ。

だから、こういうところに、矛盾があるのだけど、本人は気がつかないままなのだ。

●言霊は、発話者の頭のなかに宿っている■言霊※2026/02/03 15:33

このあいだ、言ったことを、もうすこし、わかりやすく書いてみようと思う。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。 

Aさんが「ちり紙が、カレーライスになる」と言った場合は、Aさんが思い描いたようなカレーライスになるのである。

そして、Bさんが「ちり紙が、カレーライスになる」と言った場合は、Bさんが思い描いたようなカレーライスになるのである。

皿に盛らているかどうかということも、個々人のイメージ次第なのである。

ここでたとえば、「ちり紙が、皿に盛られているカレーライスになる」と言い直したとしよう。

その場合は、もちろん、「皿に盛られている」ということが、確定される。なので、ちり紙は「皿に盛られていないカレーライス」にはならない。この場合、「皿に盛られている」という言葉を付け足したわけだ。情報量が増えた。

「カレーライス」という言葉と「皿に盛られているカレーライス」という言葉はちがう。

これは、言葉に言霊が宿っているとなると、重要なちがいだ。

それから、たとえば、Aさんは、ジャガイモが入ったカレーライスを思い描いたとしよう。そして、Bさんも、ジャガイモが入ったカレーライスを思い浮かべたとしたよう。

しかし、Aさんは、一センチぐらいのダイスのような形をしたジャガイモが複数はいっている「ジャガイモが入ったカレーライス」を思い浮かべたのに対して、Bさんは、「四センチぐらいのざっくりと切られたジャガイモが複数はいっているカレーライス」を思い浮かべたとする。

その場合、おなじジャガイモがはいったカレーライスでも、ちがうものが出てくるのである。

ちり紙が、ちがう「ジャガイモ入りのカレーライス」になってしまうのである。

肉にしたっておなじだ。ビーフカレーなのか、ポークカレーなのか、チキンカレーなのか、はいる肉によってちがってしまう。

そして、ビーフカレーにしたって、牛肉がどのように切られているかで、ちがうビーフカレーになってしまうのである。

情報量がちがうということを言ったけど、それは、こういう意味だ。

「皿に盛られたジャガイモがはいっているビーフカレー」という文字列(言葉)に込められた言霊と「カレー」という言葉に込められた言霊は、ちがうはずなのだ。

しかし、Aさんが、最初からカレーという言葉で「皿に盛られたジャガイモがはいっているビーフカレー」を思い浮かべているのであれば、「カレー」という言葉と「皿に盛られたジャガイモが入っているビーフカレー」という言葉のちがいはないということになってしまうのである。

言霊主義者の場合は、「自分」が思っていることが、すべて言葉によって表現されていると思っているみたいなのだけど、自分が思っていることを言葉にした場合、じつは、その言葉は、自分が紡ぎだした言葉以上の意味をもっているのである。

一〇〇詐欺になることをおそれずに言えば、もちろん、言霊主義者はそんなことは、気にも留めない。言霊主義者は気がついていない。

「動く」と言えば「自分が思ったように動く」ものだと思っている。

「カレーライス」と言えば、「自分が思ったようなカレーライス」だと思っている。

しかし、言葉はイメージによって補完されているのだ。

言霊が言葉(自体)に宿っているということになっているけど、言霊は、発話者の頭のなかに宿っているのである。

まあ、もちろん、言霊はないし、言霊がないから、言霊の力もないのだけど、言霊主義者が想定している「言霊」というものは、言霊主義者自身は気がついていないかもしれないけど、じつは「言葉自体」に宿っているものではないのだ。

2026年2月4日水曜日

●内面化された基準があると、内面化された基準にさからえなくなる■社会※2026/02/03 11:41

 実際には、働けない人が「人は働くべきだ」とわかったようなことを言われると、不愉快な気持ちになるのだ。

そして、相手が言っている基準を自分自身も持っていると、最悪、自殺することになる。

相手は、条件を無視している。

条件について「自分」が語れば、相手は「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言ってくることが決まっている。

そして、相手は、意地悪でそういうふうに言っているわけではなくて、ほんとうに、そうおもって、そういうふうに言っているのだ。

この場合、「バカの壁」か「無理解の壁」を感じるのだ。言われたほうは、無理解の壁を感じる。

でっ、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言うやつは、そういうふうに確信している。

自信がないことを言っているわけではないのだ。完全にそういうふうに思っている。確信している。どうしてかというと、彼らが、うまい具合に洗脳されているからだ。

けど、これは……洗脳だとは思われていない。ものすごく、深いところにある反応パターンであり、思考パターンだ。

そして、たとえば、無職に対する偏見などもある。

これも、洗脳されているのだと思うけど、ともかく、信念のような偏見がある。ものすごく深いレベルでの偏見だ。

これも、信仰に近い。

ひきこもりに対する偏見もあり、相手がひきこもりなら、バカにしていいと思っている。これも、洗脳の結果だとは思うけど、ともかく、日本人は……相手がひきこもりなら、自分よりも格下の人間で、バカにしていいと非常に深いレベルで思っているのだ。

ぼくは、「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」について、語ってきたけど、これらの考え方が、偏見をつくりだすのである。そして、条件が悪い人を、自殺に追い込むのである。

たとえば、「できると言えばできる」と言われたときの、破滅感が並じゃないのだ。ぼくの場合は、きちがいヘビメタ騒音という、ほかの人にはあんまり理解できないことが原因なのだけど、「できると言ったって、ヘビメタ騒音でできない」のだ。

けど、「できると言えばできる」と言う人は、ヘビメタ騒音が鳴っているとできない」ということを認めない。

「できると言えばできる」のだから認めない。どや顔で、「できると言えばできる」と言い切っておしまいだ。

言い切ったほうは、気持ちがいいかもしれないけど、言い切られたほうは、気分が悪いのだ。

条件が、理解されなければされないほど、死にたい度合いが強くなる。条件が悪ければ悪いほど、死にたくなるのだ。

これが、たとえば……「できると言えばできる」と言ったほうには、わからない。

「できると言えばできる」と言った人は、「できると言えばできる」という考え方が正しいと確信している。どうやって、間違ったことを言ったと思うことができるのか?

それこそ、できない。

「できると言えばできる」と言った人に、ちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。ここに書いたことを、そのままちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。

説明しても、相手は、考え方をかえない。時間の都合で説明しなければ、もちろん、相手は、考え方をかえない。どっちにしろ、考え方なんてかえない。

若い女性社員が自殺した話について、うわさになれば、「できると言えばできる」と言った人が、若い女性社員の味方をして、元上司や会社側の対応をせめることになる。

『いやーー。おまえ、まったくわかっていないなぁ』と思う。

「できると言えばできる」なんて、自殺に追い込むやつが言う言葉だ。ぜんぜん、わかっていないんだよなぁ。

けっきょく、相手の条件を無視しているということが、わかっていない。相手にとっては、重要な条件なんだよ。できなくなる条件なんだよ。

そして、こういう人たちは、みんな……ぼくの知る範囲ではみんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「俺だってつらい」「わたしだってつらい」と言う。

わっかたような気持になって言っているのだ。

もちろん、苦労したのだろう。つらいのだろう。つらい思いをしたことがあるのだろう。

それは、否定しない。

けど、相手の条件は無視しているのである。

「できると言えばできる」と言われて、黙って引き下がった人が、自殺した場合は、「できると言えばできる」という考え方を(その本人が)内面化している確率が高い。

これ、内面化しているので、「できないなら、死ぬしかないか」と思うようになるのである。自分自身に内面化された基準があると、内面化された基準にさからえなくなる。

そうすると「できないなら、死ぬしかない」という思考につながる。

「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」というのは、内面化された基準をつくりだす「もと」の理論なのである。なので、さからいにくいのである。

●猛烈にきつい「鳴り終わったあとの時間」■騒音※2026/02/04 14:45

きちがい兄貴のヘビメタ騒音がこたえた。これ、生活上、どうしても、こたえるのだ。勉強だけに限って言っても、鳴っているあいだだけ、勉強ができなくてこまるということではなくて、鳴り終わったあとも、勉強ができなくてこまるのだ。多くのほかの人は、実際に、「そういう毎日」が続いたわけではないので、これがわかっていない。そうすると、多くの人たちが「鳴り終わったら関係がない」と思うわけ。ところが、鳴り終わったあとが、猛烈にきついのである。この猛烈にきつい「鳴り終わったあとの時間」が、わかっていないのである。多くの人はわかっていない。だから、そういうことについて、認知の差ができてしまうのである。これは、実際には、きちがい兄貴のような家族がいない人は、自分にとっては経験がないことだから、「鳴り終わったら関係がない」と普通に考えてしまう。自分の考えを訂正することは、エネルギーが必要なことだし、やりたくないことなので、普通の人は、やらない。その人の頭のなかには、「鳴り終わったら関係がない」のに「エイリが、あまえたことを言っている」という考え方が残ってしまうのである。

生活上、ものすごいハンディが発生してしまうのに、多くの人が、ものすごいハンディがあるということを、普通に否定してしまうのである。そして、多くの人は、実際に、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいるわけではないので、生涯のあいだ、きちがい家族がしつこく鳴らす騒音を経験しないですむのである。 

●ずっとずっとずっと、続く■騒音※2026/02/04 0:32

 一番腹が立つのは、きちがい兄貴が「まったくやったつもりがないまま」やったということだ。きちがい兄貴だって、あの音のでかさで、自分が聞きたくない音を聞かされたら、腹を立てるのに、それがぜんぜんわからない。どれだけ言っても、わからない。けっきょく、なにも悪いことをしていないつもりで、ずっとずっとずっと、鳴らす。こっちが、どれだけ……「こまるからやめろ」と言っても、きちがい的に発狂して、きちがい的にはねのけたら、その瞬間に、忘れてしまうのだ。これ、こっちが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で腹を立てているのに、きちがい兄貴に、「ヘビメタを鳴らすな」「ヘビメタの音をさげろ」と言うと、きちがい兄貴が、きちがい親父のように発狂して、おしまいなのだ。きちがい兄貴が、騒音で、弟がこまっているということを、理解することがない。まえまえから、はんだごて事件について言っているけど、はんだごて事件というのは、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだに起こった事件だ。きちがい親父は、自分の主張で、きちがい兄貴がこまったということを、理解しないのだ。「はんだごてが使えなかった」と言うことを言われれば「つかえる!!!つかえる!!!」と逆上しておしまいなのだ。まるで、兄貴が、自分の主張でこまったということが、わかっていない。これ、何万回繰り返したっておなじなんだよ。それと、おなじで、きちがい兄貴は、自分の騒音で弟がこまっているということを、認めないのだ。認めないまま、まるで、悪いことをしていないつもりで、非常識な音で、きちがい的な音を鳴らしている。こまるにきまっているだろ。そして、「こまるにきまっている」ということは、普通の人ならわかることなのである。ところが、きちがい親父とおなじでまったくわからないのだ。何千日、繰り返してもわかしない。数千日にわたって、「きちがい兄貴のヘビメタ騒音でこまるからやめろ」と言っている二の……こっちが言っているのに……ちょっとでも、ほんとうに自分が辞めなければならないようなことを言われたら、きちがい親父のように、きちがい兄貴が発狂して、はねのけて、おしまいなのである。まったく、なにも言われなかったという認知のまま、きちがいヘビメタを、鳴らしたいぶんだけ、鳴らし続ける。ゆずるなんてことはないんだよ。自分が、ほんとうにゆずるとなったら、くやしくして、くやしくて、発狂してしまうんだよ。一秒間だって、ほんとうに自分が「我慢してゆずってやらなければならない」と言うことになったら、発狂してしまうんだよ。発狂して、「そんなこと、やってられるか」という気持ちになって、きちがい兄貴・本人が満足できる、きちがい的にでかい音で鳴らしてしまう。まるで悪いと思っていない。まるで悪いと思っていない状態が、ずっとずっとずっと、続く。

2026年2月3日火曜日

●言葉自体に言霊が宿っているのか、言葉に自分が言霊を宿らせるのか■言霊※2026/02/03 12:08

「動くと言ったから、電車が動いた」とする。

その場合、駅のプラットフォームに停車している電車が、次の駅に向かって、出発するときの「動く状態」というのが、イメージを構成している場合が多い。

しかし、「動く」と言っているだけだから、いきなり時速一〇〇キロで、動いしてしまうかもしれないのだ。あるいは、上方向に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。ようするに、天に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。

「動く」と言っているだけだから、ほんとうは、どのような「動き」をしてもいいということになる。

動けば、動いたことになる。

しかし、言霊主義者が……「電車のまえで『動く』と言って、電車が実際に動いたから、言霊が存在して、言霊の力があるということが証明できた」と言う場合は、普通に、電車がプラットフォームを出ていくときの「動き」のことを言っているのだと推測できる。

「動く」という文字列(言葉)は、じつは、そんなところまで、規定していない。

動き方を規定しているのは、発話者の、脳内にあるイメージだということになる。

ここにおいて、じつは、言霊というのは、思霊の一種だということになってしまう。

ようするに、「念力」のようなものを想定して、念力のようなものが、言葉に宿っているということを、言霊主義者は主張していることになってしまうのである。

たとえば「心をこめて言えば、いい」ということを言霊主義者が言う場合がある。

ようするに、「言ったのに現実化しない」場合は、言い方が悪かったから現実化しないということを言ったあとに、「心を込めて言えば、現実化する」ということを(言霊主義者は)言うのだ。 

前にも述べたとおり、「言ってしまったら」どれだけ心がこもっていない状態で言っても、言ったということになってしまう。

だから、「心をこめて言わなかったから、現実化しなかった」という理屈は、じつは、言霊理論を否定していることになる。

けど、言霊主義者はそんなことは、気にしない。

ようするに、言いたいのは、言霊主義者が、言葉にこだわっているようで、「言い方」や「思い」にこだわっているということだ。

言葉にこめられている「思い」が重要なのである。

それならば、もちろん、言葉に(発話者が)自力で、言霊を付与するということになる。

これは、言葉自体に、言霊が(最初から宿っている)ということを意味していないのである。また、言霊の量(言霊の力の強さ)は、発話者が、決めてしまうというようなことを意味しているのである。

つまり、言葉は「うつわ」であり、発話者が「言霊」という「念力のような力」を、言葉にいれているということになる。

これは、本来の意味での、言霊主義ではない。

しかし、もともと、矛盾していることに気がつかないような言霊主義者たちは、もちろん、言葉自体に言霊が宿っているのか、言葉に自分が言霊を宿らせるのかのちがいについては、気にも留めない。

その都度、都合がいいほうが選ばれているのである。

●情報量がちがいすぎる■言霊※2026/02/02 10:58

「このちり紙は、おいしいカレーになる」という文の「カレー」というのは、どういう「カレー」なのかということが、気になった人はいないだろうか?

じつは、この文の「カレー」というのは、「カレーライス」のことなのだ。

そして、皿の上に盛られたカレーライスなのだ。

「カレー」部分だけだと、ちり紙が、カレーになってしまった場合、下にあるものがカレーで、覆われてしまう。

たとえば、机の上に、「このちり紙」があるとする。机は、とりあえず、木製の机だとする。机の表面は、木でできている。

しかも、木がむき出しなのではなくて、ニスのようなものが塗られているとする。

その場合、机の表面にカレーがのってしまうということになる。

たいへんだ。

とても食べられたものではない。

机の表面が汚れてしまう。

じつは、「カレー」と言っても、人によって思い浮かべるものがちがうのだ。「カレーライス」と言っても、人によって思い浮かべるものがちがうのだ。

しかし、「カレー」という文字列は「カレー」だし、「カレーライス」という文字列は、カレーライスという文字列なのだ。これは、ものすごく重要な意味をもっている。

はっきり言ってしまうと、じつは、言霊は、言葉(文字列)に宿っているのではなくて、発話者の脳内に宿っているのだ。カレーライスという文字列は、カレーライスという文字列だ。

言霊理論が正しい場合……「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言ったら、言霊の力によって、おいしいカレーライスになるのである。

しかし、そのカレーライスというものは、どういうカレーライスなのかというと、発話者の脳内にあるカレーライスのイメージとおなじカレーライスになるのだ。言霊理論が正しいなら、そうなる。

そして、ここが肝要なのだけど、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という文字列を読んだ人の場合だと、読んだ人のなかにあるカレーライスのイメージ通りのカレーライスになるのだ。

読んだ人が「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言った場合、今度は、読んだ人のなかにあるカレーライスのイメージが具現化されることになる。言ったことが現実化すると言っているのだから、そうなるのである。

つまり、「カレーライス」という言葉に宿っている言霊は、言っている人によってちがうカレーライスを現実化してしまうのである。

しかし、「カレーライス」と言ったら、カレーライスなのだ。

わかるかな?

言葉に宿っている言霊ということになっているけど、じつは、言霊は、言葉自体に宿っているのではないということを意味しているのである。これは、言霊理論自体が、幼稚な脳に対応しているために、起こることだと(わたしは)思う。

幼児にとって「自分」というのは、「自分」だから、「自分が考えたようなカレーライスになる」と思ってしまうのだ。自己中心性が強いのだ。

だから、文字列(ことば)自体に、言霊が宿っているということを聴いても、別に疑問を感じない。カレーライスという言葉を聴いて、思い浮かべるカレーライスが、カレーライスであると勝手に決めつけてしまうことができるからだ。

*     *     *

ここで言いたいのは、たとえば、カレーライスという言葉が持っている情報量と、カレーライスと言う言葉を聴いた側が持ってるカレーライスに関する情報量がまったくちがうということだ。

言霊理論に従えば、カレーライスという文字列が、言霊をもっているということになるのだ。 これは、間違っている。彼らは、またまた、自分で自分をだましているのである。

「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉は「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉でしかないのだから、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に言霊が宿っているとなると、おかしなことになるのだ。

ようするに、受け取り側の力を無視して、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に言霊が宿っているということになっているのだけど、実際には、受け取り側の情報量に従ったカレーライスがイメージされるので、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に対応したカレーライスが、ひとつのカレーライスにはならずに、各々が思い浮かべたカレーライスになってしまうのだ。

その場合、言霊というのは、言葉自体に付与されているものではなくて、言った人が自分で付与するものになってしまうのだ。

ところが、そういうことを、言霊主義者は一切合切考えないのである。自分が思い浮かべたカレーライスがカレーライスなのであれば、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言えば、ちり紙が(言霊の力によって)カレーライスになると思ってしまうのだ。

「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という文字列(言葉)に宿っている言霊はおなじなのに、各々の発話者によって、ちがうカレーライスができてしまうことに(言霊主義者は)疑問をもたない。 

もちろん、大人の言霊主義者は、「そんなことはない」と思うだろう。

ところが、これは、普段、「当たり前だと思うこと」に関しては、言霊思考をしないということで、さけられている。大人の言霊主義者は、一〇円玉が(下に)落ちるのは当たり前だと思っているのだ。

だから、一〇円玉が下に落ちるのは、言霊の力とは関係なく一〇円玉が下に落ちると思っているのだ。言霊思考をしないのだ。

*     *     *

あんまりわからないかもしれないけど、「カレーライス」という言葉の情報量と、「カレーライスが具現化する」ということを考えているときの「カレーライス」という言葉の情報量がちがいすぎるのだ。カレーライスという言葉が持っている情報量と、人のなかにある「カレーライス」という言葉がもっている情報量がちがいすぎるのだ。だから、言葉だけに注目する言霊理論は、こういうところでも、まちがっている。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。