ほんとうは、人によって、差がある。
ほんとうは、人によって、ものすごい差がある。条件の差がある。
ところが、最初に出てくる一〇〇%詐欺構文は、条件を無視したものなのである。だから、現実には合致しないのである。だから、条件が悪い人は、詐欺構文のようにうまくいかない場合がある。一〇〇%詐欺構文の信者は「努力すれば成功する」と言うわけ。
信者のなかでは、正しいことなんだよ。
ところが、実際には、一〇〇%詐欺構文は、理論的に間違っている。
信者が信じるような(信者の頭のなかにある文がもつ意味)と、現実的な意味での意味が食い違っているのである。しかし、信者のほうは、食い違っているということに無頓着だ。
あるときは、ほんとうに一〇〇%成り立つと思っているし、あるときは、一〇〇%じゃなくても成り立つ(だいたいは成り立つ)と思っているのだ。
また、あるときは、「努力すればする場合だってある」と思っているのだ。
条件に関係なく一〇〇%の確率で(文の内容が)成立するのか、あるいは、条件によっては成立する場合があるのかは、重要なちがいなんだよ。
ところが、努力論者は、自分のなかで、文がもつ意味を切り替えて、暮らしているのだ。
そして、何度も言うけど、切り替えていることに、無頓着だ。
努力論者自体が、無頓着なのだ。モードがちがえば言うことがちがうのである。自分のことであれば、条件を考慮しなければならなくなるので、自分のことに関しては、条件を考慮したことを言うのである。
けど、ほかの人のこと……に関しては、条件を考慮しなければならない理由がないので、条件を無視してしまうのである。
ともかく、言うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。思うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。まったく気にしないけどな。
本人がやっていることなのに、本人の意識にはのぼらないのだ。いったいどれだけの努力論者が、「努力すれば成功する」という文は、現実的ではないということを理解しているのか。
言霊主義者が、言霊理論が正しいと思いながらも、普段の生活のなかでは、言霊理論を無視してしまうということと、似ている現象が、努力論者にもしょうじる。