条件について、言及することは、「とても恥ずかしいこと」なのである。こういう価値観が、深く、深く、深く、浸透している。
しかし、これは、奇妙なことだ。ほんとうは、条件について、言及することは、恥ずかしいことではない。条件が事実なら、事実だからだ。
しかし、条件についてだけは、事実であっても、言及してはいけないことになっているのである。
そして、条件は、たいていの人にインストールされている「集合的一括思考」によって、否定される……ことになっている。
悪態をつく人が、条件について言及するようになっているのである。そうすると、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのはあまえだ」「こいつは、なにを言っているんだ」という気持ちになるのである。
多くの動画で、悪い人が条件について言及するようになっている。
「ふざけた話だ」と多くの人が思うようになっているのである。「こいつは、自分が悪いのに、なにを言っているんだ」と多くの人が 思うようになっているのである。
「自分が悪いのに、人のせいにしている」とか「自分が悪いのに(その結果、起こったことを)条件のせいにしている」という悪いイメージができあがるように、動画が構成されているのである。
たたきやすいところに関しては、ちゃんと、たたきやすいような動画がつくられている。
たとえば、生活保護を不正受給している人が、条件について、言及するのである。もともと、悪いことをしている人が、ああだこうだと(自分の生まれながらの条件について)言及して、正当化しているような動画をつくってしまうのである。
ひきこもりでも、ニートでも、無職でも、「条件が悪い」ということを言う人は、最初から、悪役として出てくるのである。
逆に、さまざまなアニメの主人公や様々なドラマの主人公は、どれだけ条件が悪くても、条件について言及せず、スーパーパワーと意志力で、最後には、勝率をつかむ人たちなのである。
もう、われわれは、小さいときから、洗脳されている。
そして、ほんとうのことを言ってしまうと、現実社会に住んでいる非・支配者層の人は、じつは……見放されているのである。
はっきり言うと、主人公のほうに、肩入れをして、自分が主人公側の人間だと思うようになっているのだけど、現実には、非・支配者層の人は、やられてしまうほうの人間で、最後の最後に大逆転をして勝つ人ではないのだ。
けど、最後には、ものすごくラッキーなことが起きて、自分が勝つというイメージをうめこまれてしまうのである。
ところが、実生活のなかでは、アニメやドラマのようには、いかないのである。
現実を思い知らされることになる。
けど、「どこかで、そういうことが起こる」「最後には、ものすごくいいことが起こって、大逆転する」というようなことを最後の最後まで、期待してしまうところがある。
非・支配者階級に生まれた時点で、勝負がついているのである。
支配者層と、非・支配者層のあいだには、ものすごくでかい溝がある。
支配者層が仕掛けたいろいろなことを、非・支配者層の人は、回避できない。
ようするに、支配者層が仕掛けたしくみによって、駆逐されてしまう。罠にかかってやられてしまう。
本人……が主人公だとする。その場合、ものすごくいいことが起こって、逆転するということが、起こらずに、そのまま主人公(自分自身)がやられてしまうということになる。
こっちがい、現実なのだ。
非・支配者層のなかにも、ランクがある。
支配者層のピラミッドとおなじように、非・支配者層のなかにも、ピラミッドがある。その場合、たいていの人は、やられてしまう側なのである。
まあ、わからないか?
やられたことに気がつきもしないのが、大衆なのである。
ようするに、「ものすごい逆転劇」を視聴しているほうだ。ドラマやアニメのように、やられる側の人が、最後には救われて、大逆転をするということは……現実世界では……ない。やられてしまう。
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架空の話のなかでは、最後に救いの手が差し出されて、大ラッキーで、勝つのである。主人公は、そうなる。たいていの場合、主人公に、自己を投影するので、『自分』がそっち側の人間だと思ってしまうのである。
非・支配者階級のトップのほうは、それでも、いい暮らしができるのである。適当に思いついたライフハックを、口にすることができる。一〇〇%構文で言って、おカネもうけをすることもできる。けど、それは、非・支配者階級のなかで「条件がいいほうだから」可能なことなのである。
非・支配者階級のなかで、「条件が特別に悪い人」や「条件が悪い人」や「条件が普通の人」は、相当に、もがくことになるのである。
そして、けっきょくは、一〇〇%構文で言われたことが、かなわないまま、この世から去ることになる。
ともかく、条件が悪い人は、最初から、「嫌悪すべき対象」として(物語のなかに)出てくる。そして、きらわれるようなことを言って、負けるのである。
だから、そういう物語をずっと、小さいときから魅せられていると「条件について言及する」ということが、容易にはできなくなる。どうしてかというと、そういう「嫌悪すべき対象」と「自分」がおなじだと、他人から見なされるようになるからである。
最初から、嫌悪される存在を配置して、なんとなく、そのことについて、言いにくい雰囲気をつくるというのが、「黒」のやり方だ。
たとえば、反ワクだって、そうなのである。陰謀論者だってそうなのである。あるいは、うるさい音をたてて迷惑をかける右翼の人もそうなのである。あるいは、なんかいやな感じで、テレビに映っている左翼の人もそうなのである。この人たちは、言いにくい雰囲気をつくるために……配置された人たちだ。
「嫌悪感が生まれる」ようになっているのである。
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非・支配者階級の普通の人や、非・支配者階級の条件が悪い人は……言霊のように「いつか」夢がかなうと、先送りにして生きているのである。
言霊が、強力なアイテムなら、「いつか」などと言わないで、三秒でかなえてしまえばいいのである。ところが、かなわない。
だから、「いつか」かなうということにして、夢を先送りにする。大逆転を待っている状態だ。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」というアイテムは、夢を先送りにするアイテムなのだ。だから、期待は持たせるけど、ほんとうは、それだけの力をもつアイテムではないということになる。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」……なかで……「努力」だけは、わりと有益だけど、しっぺ返しを食らうようになっている。「努力」で、やりきると、最後には、相応の不幸なことが襲ってくるようになっている。
「言霊」「思霊」「引き寄せ」は、勘違いによって、「正しい」と思われるアイテムなのである。だから、勘違いが持続しているあいだは、有力なアイテムなのである。本人にとって……有力なアイテムだ。しかし、勘違いをしているだけだ。
ほんとうに、有力なアイテムなら、時間内に効果を発揮している。
たとえば、言霊なら……「三秒以内に、こうなる」と言えば、三秒以内に言った通りになっている。どんなことでも、言えば、かなう。いつかはかなう……と待っている必要はない。
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だから、ほんとうに必要なのは、しくみを理解して、条件をかえていくということなのである。あまりにも、開きすぎている条件の差を、縮めるということが必要になるのである。それには、まず、「夢を見させるアイテム」のしくみを理解して、現実的な格差を減らしていく必要がある。
これ、「夢を見させるアイテム」は、ひどい社会を維持するための、アイテムなのだ。そりゃ、幼児的万能感があるから、有効であるように思える。幼児的万能感は、だれにでもある。それに、誤解をする力もあるので、有効であるように見えるのである。
個人のなかでは、それでいい。しかし、一〇〇%構文で、あたかも、事実のように言うことには、問題がある。
けど、一〇〇%構文で、事実のように言うことが、むしろ、奨励されているのである。言われたほうは、だまされるか、苦渋をなめるしかないのである。だまされているあいだは、夢を見ることができるので、ある程度、有効だと言うことができるのだけど、それは、だまされているあいだのことだ。儀式自体が快感を生み出す場合があるのである。
そして、積極的に誤解をすれば、「これは有益だ」と思えるのである。
そして、一〇〇%構文で、言い切ること自体が、快感を生み出すことなのである。だから、巧妙にしかけられた、悪の連鎖がはじまる。