たとえば、カレーライスをつくろうと思ったとする。
そして、実際に行動して、カレーライスをつくったとする。
こういう例をあげて「思ったことは現実化する」と思霊主義者は言うのだ。
しかし、行動したということを、すっ飛ばしている。無視している。
実際に行動した……。
だから、カレーができた。
しかし、「思ったから」カレーライスができたのだと言い張るのだ。
たしかに、思ったことは、スタート地点として重要なことだ。しかし、「カレーライスをつくろう」と思っただけで、実際に行動にうつさなかったら、カレーライスはできないのである。
こういう、自分の身体を動かしてやったことを、無視してしまう人がいる。
表現としては……「カレーライスをつくろうと思ったから、カレーライスができた」という表現は、正しい表現だ。
しかし、だから、「思ったことは、現実化する」という結論も正しいかというと、そうではないのである。
「思ったこと」というのは、「すべての思ったこと」という意味になる。
ところが、思ったって、現実化しないことはあるのである。
だから、「思ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある」ということになる。
「思ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある」という文の意味と「思ったことは、現実化する」という文の意味は、等価ではない。
まず、これを理解しないとだめなのだ。
そして、自分が実際の行動を無視しているということを理解しないとだめだ。
思った……だけでは、現実化しないことのほうが多い。まず、思っただけで、現実化するのは、思ったということだ。そして、これは、誤解をしやすいところなのだけど、思ったことが、思霊以外の理由で、現実化することがある。
これは、現実化するというよりも、実際にそうなったということだ。
「明日は、雨が降る」と思ったあと、実際に次の日になってみたら、雨が降ったとする。
思霊とは関係がないけど、思ったあとに、思ったことの意味内容が、現実化した。
しかし、思霊という神秘的な力によって、思ったことの意味内容が、現実化したわけではない。明日は雨が降ると思ったあと、実際に、その通りになっただけだ。
そして、思霊主義者は、このことだけを取り上げて、「思霊という神秘的な力がある」ということと「自分が、その神秘的な力の根源になりえる」ということを確信してしまうのだけど、これは、間違った推論だ。
実際に、「明日は、雨が降る」と思ったのに、雨が降らない場合もある。
この場合、「思霊という神秘的な力がない」ということと「自分はその神秘的な力の根源になりえない」ということを、確信するかというと……たいていの場合……確信しないのだ。
ようするに、あたったときだけ、間違った推論をして、確信してしまう。
確率が二分の一だとすると、当たったときの二分の一だけを見ているということになる。
だから、ほんとうは、間違った推論をしているのだけど、「正しい」と確信してしまう。
この確信は、本人にとって都合がいいものなのである。
しかし、幼児的な、間違った確信なのである。
* * *
表現の問題というのがある。
「漫画家になろうと思ったから、漫画家になれた」という表現は、正しい。漫画家になろうと思わなければ、漫画家になれない。
漫画家になろうと思わなかったのに、ちょっと漫画を描いてみたら、あれよあれよという間に、漫画家と呼ばれる存在になっていたということは、ありえる。
しかし、それでも、漫画を描いたのである。そして、それを人に見せたのである。
まあ、漫画家だと、漫画家になろうと思わなかった人が、漫画家になってしまうことは、ありえるので、ちょっと、例をかえておこう。
たとえば、プロ野球の選手になろうと思ったから、プロ野球の選手になれた」という表現は正しい。プロ野球の選手になろうと思わなかったら、プロ野球の選手になれない。
しかし、「思っただけ」でプロ野球の選手になったわけではないのだ。思ったあと、実際に行動をした。
この「行動をした」というところを無視して「プロ野球の選手になろうと思ったから、プロ野球の選手になれた」と言う場合、表現としては正しいのだ。
しかし、ほんとうは、行動をしたから、プロ野球の選手になることができたわけだ。
そして、プロ野球の選手になるために、実際に行動をしたにもかかわらず、プロ野球の選手になれなかった人だっているのだ。
だから、「思えば、思ったことが現実化する」と一〇〇%構文で一般化してしまうのは、間違ったことなんだよ。
そして、実際の行動を無視して、「思っただけで、思ったことが現実化してしまう」というようなことを言うのは、よくない行為なんだよ。
どうしてかというと、思っただけではないからだ。
嘘を、嘘じゃないと思って言っている場合は、愚かな行為……。
嘘を嘘だと思っているのに、真実だということにして言っている場合は、詐欺行為だ。
漫画家の例でもおなじだ。実際に、漫画を描くというような行為をした。実際に、書いた漫画をほかの人に見せた。そういう行為を全部無視してしまうのは、おかしい。
「思ったということ」と「実際に行動したということ」の二つの部分にわけるとすると、「思った」という部分だけに注目して、「実際に行動した」という部分を無視するのは、意図的ではないにしろよくない行為なのである。
どうしてかというと、間違いを誘発するからだ。
実際に不幸な人は、「不幸になると思ったから、不幸なのだ」とか「不幸になると言ったから、不幸なのだ」とか「幸福になる努力をしなかったから、不幸なのだ」ということになってしまうのである。
精神世界の影響を強く受けた人たちだけではなくて、ごく普通の人たちも、そういうふうに思うように誘導されている。
ひとごとなら、条件を簡単に無視できるので、そうなってしまうのである。その人たちの頭のなかでそうなってしまう。
そうなると、不幸な人に対する偏見が発生するのである。不幸な人を、見下すようになるのである。
「思えば思ったことが現実化する」とか「言えば言ったことが現実化する」とか「努力すれば成功する」とかということが、そういう偏見を生み出す、原動力になっている。
自分のことの場合は、自分が一倍速で感じていることを基準にして判断するのである。
だから、思霊理論や言霊理論や努力論の影響を受けずに、なまで、感じることができるのである。
自分のことに関しては、自分の記憶があるので、記憶に応じた「理由」が自分自身のなかで、あきらかなのである。
別に「不幸になると思ったから、不幸なのだ」とか「不幸になると言ったから、不幸なのだ」とか「幸福になる努力をしなかったから、不幸なのだ」とか思わなくてもすむ。
そんなことよりも、自分の経験に根差した確かな理由がある。
そっちの理由のほうが、でかい。「思った」という理由よりもでかい。
だから、自分のことに関しては、よっぽど、思霊理論に注意が向かない限り、思霊理論を無視して考えてしまうのである。
こういう現実的な理由があるのだから、こうなって当然だと……感じてしまうのである。
事柄によっては、思霊理論に注意が向きやすい事柄がある。
だから、主観的には、そのときの思考をとりあげて、自分のにも、ちゃんと、思霊理論を適用しているつもりになってしまう。
しかし、注意が向かないことに関しては、思霊理論をガン無視して、生きているのである。思霊主義者も、普通の人も、思霊理論ガン無視して、生きている。思霊理論に注意が向くようなことが起こったときだけ『自分が思ったから、こうなった』と思っているだけなのだ。
普段のいろいろなことに関しては、『思った』ということ以外のちゃんとした理由があるように思うので、そうなってあたりまえだと思うのである。
思霊主義者が、思霊理論を批判されたときの反応について書いた。エイリが「思霊理論は間違っている」と思霊主義者に言ったときの話だ。
言語に関係した感情的な反応やボディーサインに関係した感情的な反応というのは、主に、それまでつちかった「ビリーフ」によって、発生するのある。ようするに、あたりまえの反応をするのである。腹が立つことをされたら、腹が立つのである。「それ」は腹が立つことだと判断する内面的な基準があるのである。
内面的な基準は、明確に意識され、明確に言語化された基準であるとは限らない。むしろ、語られていない基準のほうが大きな役割をはたしている。
自分が正しいと思っていたことを否定されたときは、たいていの場合、主に怒りの感情がわくのである。それは、明確に「こういうことを思ったから、こういうことが発生した」というような思考回路を経るものではないのだ。
実際に「思ったことがない」ことが発生した場合だって、「思ったことがない」ことが発生したということに、驚きを感じたりする。
「怒り」の感情や「驚き」の感情や「悲しみ」の感情や「よろこび」の感情は、一部の例外を除いて、思霊理論とは、まったく関係なしに発生するのである。
思霊理論に特別に関係がある場合を除いて、ほとんどの場合は、普通に、おこったり、驚いたり、悲しんだり、よろこんだりしているのである。
「自分が過去において(そのことを)思った」ということと、関係なく、人々はおこったり、驚いたり、悲しんだり、よろこんだりしているのである。