これは、もうすでに書いたことなのだけど、名前だけ店長は、サービス残業をして「あげて」いる。
これ、「親切行為」なのである。
無償のボランティアなのである。名前だけ店長は、じゅうぶんに、親切にしてあげている。ブラック社長や他の従業員に、親切にしてあげている。
無償で、ある行為をしてあげている。
しかし、ブラック社長は、別に、親切にして「もらっている」とは思わないのだ。ブラック社長にとっては、名前だけ店長は、あたりまえのことをしているにしかすぎないのだ。
ブラック社長は、名前だけ店長のサービス残業に付随する行為を「親切行為」だとは認識していない。
かわりに、名前だけ店長が、やるべきことだと思っているのである。名前だけ店長がやるべき仕事をしているだけなのである。親切行為ではない。
いま、この文を読んでいる人たちも、名前だけ店長が、親切行為をしているというような認識は、もちにくいと思える。
どうしてなら、それが、仕事だからだ。
社会の中に埋め込まれた労働行為だからだ。ある会社にAさんとBさんとCさんがいたとする。CさんがAさんの仕事とBさんの仕事を割り当てたとする。
そうすると、Aさんの仕事はAさんの仕事になり、Bさんの仕事はBさんの仕事になる。
Bさんの仕事が遅れていたので、Aさんが、Bさんの仕事を手伝ってあげたとする。この場合、Aさんは、Bさんに親切にしてあげたということになる。Aさんの行為は、親切行為として認識されやすい。
特に、Bさんが、「自分の仕事が遅れているから、どうにか、手伝ってくれないか」とAさんに頼んだ場合は、Bさんは、Aさんに「かりができた」ということになる。Aさんがこまっているときに、Bさんが、Aさんの仕事をやってあげれば、「おかえしをした」ということになる。
全体的に見れば、互酬性が成り立っているように見える。
Aさんがこまっているときに、Bさんが助けてくれたのだから、Aさんは、「親切にしてもらった」と思うだろう。そして、Bさんも「親切にしてあげた」と思うだろう。
そのまえに、逆の関係が成り立っているのだから、助け合いだということになる。AさんがBさんの仕事を手伝ってあげたときは、AさんがBさんに親切行為をしたことになり、Aさんの運があがったということになる。
そして、BさんがAさんの仕事を手伝ってあげたときは、BさんがAさんに親切行為をしたことになり、Bさんの運があがったということになる。
しかし、これは、CさんがAさんとBさんに仕事を割り当てたことから、発生しているのである。
Cさんの、AさんとBさんに対する仕事の割り当てが、最初から、きわめて不均衡なものであった場合であって、AさんもBさんも、「これは、不公平だ」と感じていたら、「運があがる」というような考え方も、影響を受けることになる。
だから、「互酬性の感覚」が成り立ったり「運があがるというような感覚」が成り立ったりする場合も、じつは、最初の枠組みの影響を受けるということになる。
そして、CさんがAさんとBさんの仕事を決めるということを含めて、「しくみ」が成り立っている。
そして、語られはしないけど、Aさん、Bさん、Cさんに、「しくみ」の認識が成り立っているのだ。
物をもらったら、そのものに相当するようなものを送り返すルールがあるとする。ルールとして成り立っているとする。
ようするに、しくみがあるということだ。
この場合、ルールに従うなら、Aさんが、Bさんに、ものをあげた場合、BさんもAさんに、ものをあげることになる。
Aさんが、Bさんにものをあげたことをわすれて、あるいは、無視している場合、Bさんからものをもらったので、「いいことが起こった」と解釈するとする。
いちおう、ものをもらったのだから、「いいことが起こった」と解釈するのは、妥当なことのように思える。
しかし、先に、Aさんが、Bさにものをあげたので、Aさんから(別のものが)返ってきたと解釈することができる。
ようするに、しくみのなかで、「当然のこと」をしたので、「当然の結果」が返ってきただけなのだけど、「ものをもらった」ということだけに注目をすれば、「いいことが起こった」と解釈できる。
問題は、Aさんが、先に、Bさんにものをあげたということを、無視してしまうということと、社会にはものをもらったら、そのものに相当するようなものを送り返すルールがあるということを、Aさんが、無視してしまうことだ。
なにか、神秘的な力によって、「ものをもらう」ということが起こったわけではなくて、事前に、AさんがBさんにものをおくっていて、なおかつ、社会には、ものをもらったら、そのものに相当するようなものを送り返すルールが成り立っているから、「ものをもらう」ということが発生しやすくなると考えるべきなのだ。
神秘的な力は、じつは、介在していないのである。神秘的な力が、「運をあげる」とか「運をあげた結果、ものをもらう」ということが起こるということになっているのだけど、そうではない場合も、そのように考えてしまう場合がある。
「しくみ」のなかで、ものをもらった場合でも、もちろん、あること(引き寄せ行為、いいことを発生させると思われている儀式的な行為)をしたから、ものをもらうといういいことが起こったと解釈できる。
しかし、あることをしたということと、ものをもらうという出来事のあいだに、関係がないのである。
もちろん、「あること」というのが、事前に、相手に、こちらからプレゼントとしてものを渡しておいた場合は、「あること」と相手が、こちらにも、プレゼントしてものをくれたということは、関係がある。
しかし、関係がない場合も、ふたつの出来事を関連付けて考えて、運があがったと思うことができる。
たとえば、「掃除をするといいことがある」としよう。 掃除をしたあと、プレゼントして、ものをもらったとしよう。
その場合、「掃除をしたから、運があがって、ものをもらうことができた」と思うことが可能だ。
たとえ、プレゼントとして、事前に自分がその人にものをあげていたとしてもだ……。
そして、返礼品として、ものをもらうというのではなくて、純粋に、掃除をした後、ものをもらう場合もある。
この場合は、返礼品ではないから、掃除によって、運があがったので、それをもらったと考えることはできるのだけど、別に「掃除」をしなかったとしても、ものをもらえたかもしれないのである。
掃除をしなかったのに、ものをもらったことがある場合、本人が、「掃除をしたから」ものをもらえたと考えているだけで、ほんとうに「掃除」をするということと、ものをもらうということのあいだに、関係性があるのかどうかわからない。
たぶん、ふたつの出来事のあいだに、関連性はない。
しかし、「関連性がある」と確信することも、できる。できるのだけど、間違った確信をもっているだけだ。
たとえば、「妻」が掃除をしているところを見て、「旦那」が、プレゼントを買ってきたとする。
この場合は、たしかに、「掃除」がきっかけになっている。
けど、「掃除」自体に、運をあげる効果があるとは言いがたい。「運があがった」のかということについては、「運があがる」ということが、「個別の能力値」の上昇を意味することではなくて、ただ単に、現実の写し絵だということになる。
ともかく、ほんとうは、しくみのなかで、そういうことが起こりやすくなるという場合があるのに、それを全部「X」のせいにしてしまうのである。
「Xをしたから」「そういうことが起きた」と解釈してしまう。
本人だけなら、これでいいけど、「Xをすると、運があがる」と他人に言ってしまうのは、問題がある。なぜかというと、他人には、過酷な条件が成り立っているかもしれないからだ。
過酷な条件をもっている人に「Xをすると、運があがる」と言ってしまうのは、問題がある。
これ、いいこととして認識されているみたいなのだけど、それは、他人の条件を無視しているから、いいことだと思っているだけだ。
一〇〇%構文の文で言うということは、ほかの条件をすべて無視しているということなのである。
「Xをすると、運があがる」と言う場合は、「Xをする」か「Xをしない」かという条件以外の条件をすべて無視してしまうのである。
だから、条件が悪い人は、自分の条件の悪さを、自動的に無視されることになる。
ところが、悪い条件によって、悪い出来事が発生している場合が多いのである。一〇〇%構文で言うほうは、相手の条件なんて無視しても、いいということになっているのだけど、一〇〇%構文の文で言われるほうには、条件があるのである。
一〇〇%構文の文を言うほうが、頑固に無視していることが、ほんとうの原因である場合がある。ところが、一〇〇%構文の文を言うほうは、条件を無視しているのである。
たぶん、多くの場合、条件を無視しているということも、無視している。相手の条件を無視したり、軽視することは、よくないことだ。
* * *
たとえば、他人にいろいろなものをあげておく。そして、「掃除をすれば運があがる」と思っているから、掃除したとする。そのあと、実際に、他人から(返礼品)をもらったとする。
他人から、ものをもらったときに、「掃除をしたから、運があがった」と思うことにしているのであれば、この人にとって、「掃除をすれば、運があがる」ということは、「正しいことだ」ということになる。「法則性があることだ」ということになる。
けど、ほんとうは、「掃除」ではなくて、他人にいろいろなものをあげたということが、ほんとうの、理由である場合がある。もちろん、事前に他人にものをあげていなくても、他人がものをくれることはある。だから、「場合がある」と書いておいた。
ある人が、「掃除をすれば運があがる」と思い込んだとする。そして、ほかの人に、「正しいこと」として、その言葉を言ったとする。
しかし、その言葉は、じつは正しくない。法則性も成り立っていない。
条件が悪い人は、悪い条件によって、運がさがった(運がない)と表現される状態になっているので、こまるのである。
しかし、「正しい言葉」を言われたほうが、その言葉の内容を否定したり、批判すると、「正しい言葉」を言ったほうは、相手のネガティブさが問題なんだということを言い始める可能性がある。確率は、相当に高い。
ようするに、「人が言ったことを、否定するから」「不幸なんだ」ということを言い出す可能性がある。この場合、じつは、 「人が言ったことを、否定するから、不幸なんだ」と言っているほうが、悪いことをしているということになる。わかるかな?
「正しい」と確信しているけど、最初から、間違っている。そして、相手の性格をディスりはじめる。悪口を言ってるのは、「人が言ったことを、否定するから、不幸なんだ」と言っているほうだ。