あんときの、あれ、ない。
ヘビメタが「つもった」朝の雰囲気はない。
死んでしまう。
それを、死なないで、根性でがんばって通たのに……。それが、もっと死にたい気持ちを増大させるなんて……。あんなのはない。
ヘビメタが「つもった」受験日の雰囲気はない。
あれ、ないんだよ。ほんとうに、つらかった。あの、試験場に行く道が、すでに、「死」だ。死にたいのをこらえて行った。全部が全部、くるしかった。きちがいがめちゃくちゃな意地で、鳴らしたから……。ほんとうに、日々がすごいんだよ。どれだけ、きついか。ヘビメタ、やられて、朝起きるのがどれだけつらいか。
ヘビメタをやられたことがない人が「俺だって朝はつらいけど、がんばっている」なんて言うわけだから……。「俺だって……」。ヘビメタをやられてない人が、「がんばれ」という文脈で言うな。ほんとうに、ちがうのに……。何千日もヘビメタが続いたかどうか、ちがうのに……どうして、「おなじだ」という前提に立って「つらい」と言うのか? 「俺だって」と言うのか? あるいは、「みんな」と言うのか? そりゃ、ヘビメタ騒音をやられてない状態でも、朝がつらい日はある。そういうことは、わかっている。けど、そういう「つらい朝」と、ヘビメタ騒音をやられてからの「つらい朝」はちがう。質的にちがう。「がんばれ」という文脈で言う人たちは、実際に「通っている」わけで、「通える」。可能だという点で、ほんとうには、まいってない。くたびれて、つらい思いをして「通っている」みんなだって、通っているのだから、まだ、通えるぐらいのつらさだということだ。
通えなくなって、死んだ人は、そんなことを言わない。 通えなくなって、ダウンした人はそんなことは、言わない。「俺だって」と言う人や、「みんながんばっている」というようなことを言う人は、ほんとうには、まいってない。
余裕がある。
ぜんぜん、わかってない。
質的に、ちがう地点に立ったことがない。
一度もない。
だから、言える。言えるということが、質的にちがうつらさしか経験したことがないということの、証拠だ。そんなものじゃないんだよ。「ちがう」と言っているでしょ。
俺だから生きているんだぞ。通わないことにしたから、生きているんだぞ。
おまえら、まったくわかってないな。
そういう「弱い」つらさで、えらそうなことを言いやがって。そういう「弱い」つらさしか、経験してないから、そんなことが言える。「俺だってつらいけどがんばって通っている」と言える。「みんなつらいけどがんばって通っている」と言える。それは、ちっともえらいことじゃない。
説教できる立場じゃない。
きちがい野郎においつめられたことがないから、そう言える。どんだけ、おいつめられるか? 死に物狂いの努力が、どれだけむだになるか。そして、そういう時間も、ガンガン鳴っている。まったくわかってない。わかってないから、「俺だって……」と言える。「みんな……」と言える。
「俺だってつらい」は、死んでから言え。
「もう、死ぬしかない」というところまで追いつめられたことがある人は「俺だって」なんて言わない。 「もう、死ぬしかない」というところまで、追いつめられて、それでも通うつもりでいた人は、死んでる。「もう、死ぬしかない」というところまで、追いつめられて、行かないことを選択した人は、わかっているから、その言葉を口にしない。
だって、通っていないわけだから、「俺だってつらいけど、がんばって通っている」なんてことは、言わないだろ。通ってないわけだから……。その時点で通ってないでしょ。そういう人たちは……。
すでに死んでいる人か、すでに通ってない人しか、俺に対して「俺だってつらいけど、がんばって通っている」と言う資格がない。資格の問題だよ。
「俺だってつらいけど、がんばって通っている」というようなことは、死んでから言え。