「人間働くべきである」と考えていて、なおかつ「努力すればできるようになる」と考えている人たちは、よく「障害者だって働いている」ということを言う。
この場合、五体満足である健常者に言う場合は「障害者だって働いているのに、健常者であるおまえが働かないということはゆるせない」という気持ちが込められている。
しかし、健常者のなかには障害者と健常者の境界線上に位置する者たちがいる。この人たちは、とりあえず健常者に分類されているだけだ。障害がしょうじる範囲がちいさい場合は、障害者とは分類されないが、しかし、その「障害がしょうじる範囲」が「仕事をする」ということに、致命的な影響を与えることがある。ようするに、生活する範囲では、障害があるように見えないのだが、いざ仕事をしようとすると障害がある部分が露見してしまう場合である。
しかし、健常者として生活しているのだから、もちろん、健常者として見なされる。見なされる場合は、自動的に「努力をすればできるようになる」とみなされてしまうので、単に、あまえているだけだということになる。だれが、だれにむかって「努力すればできるようになる」と言っているのかということが、ここでも問題になる。
何度も言うけど、その言葉を発する人が「努力すればできるようになる」と思っているだけなのである。だれが「努力すればできるようになる」かというと、その言葉を発された人ができるようになるのだ。しかし、これは、ただ単にその言葉を発する人がそう信じ込んでいるということでしかない。ほんとうに発された人ができるのかどうかはわからない。
ようするに、健常者のなかにも隠れた障害を持っている人もいるので「障害者でもできるのだから健常者ならできるに決まっている」とか「障害者でも働いているのだから、健常者が働けないということはない」とかという考え方はまちがっている可能性がある。
その言葉を発された人が健常者と障害者の境界線上に位置する人である場合と、ある範囲で見えにくい障害を抱えている人の場合は、その言葉はまちがいであると言える。
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