2021年5月19日水曜日

人に「できるようになる努力」を強要するのは、よくない


「できる」とか「できない」というのは、他人と比較して「できる」とか「できない」ということを言っているにすぎない。

たとえば、垂直飛びで30メートルジャンプできる人はいない。いないので、「できると言えばできる」と言っている人も、じつは、垂直飛びで30メートルジャンプできるとは思ってない。

思ってないのだけど、「人間ができないことは、できると言っても、できない」というようなことは、捨象されている。無視されている。

「人間ができないこと」と書いたけど厳密に言えば「人間ができないと(その人が思っていること)」だ。「できると言えばできる」という言い方をするとき、その人は、例外をもうけていない。「できると言えば、どんなことだってできる」のだ。そういう意味で言っている。文字通り「どんなこと」だってできるという意味で言っている。

だから、こういう人たちは、言うたびに、じつは、同じ言葉にちがう意味を込めて使っている。これが、言ってみれば「意味のバッファ」になっていて、自分では矛盾に気がつかないようになっている。

*     *     *

言霊信者「できると言えば、どんなことだって!!!できる」

俺「垂直飛びで30メートルジャンプできますか」

言霊信者「そんなことは言ってない。人間ができることは、できると言えばできるようになると言っているのだ」

*     *     *

たとえば、こういう会話があったとする。しかし、このような会話があったあとも、制限をつけずに「どんなことだって」ということを言う。「できると言えば、すべて、できるようになる」のである。そういう架空の「できる」が含まれている。

こういう人たちは、「人間ができないことに関しては、できると言ってもできない」ということは、認めていない。すぐに「できると言えば、どんなことだってできる」という考えが復活してしまう。

この場合は、「例外」なんてないのである。

そういう、理論的な矛盾がある。

「架空の抽象世界」では、もちろん、30メートルジャンプすることだって、できると言えばできるのである。「架空の抽象世界」というのは、その人の「こころの世界」だ。

まあ、「できると言えばできる」と言うことに関しては、本人が本人に対して言う場合は、なんの問題もないので、追及はしないけど、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と他人に言う場合は、問題がある。

相手の状態を気にするべきだ。「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言う人が、その言葉を言われる人の!なにを!理解しているのか?

なにも理解してないのである。

はげましていい気持ちになっているのは、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」という言葉を放ったほうだ。言われたほうは、いい気持にならない場合があるということを理解しておいたほうがいい。

 自分が「できると言えばできる」と思って、「できるように努力する」というのはまったく問題がない。しかし、他人にその言葉を投げかけるときは、他人が「できるように努力しなければならない」のだから問題がしょうじる。

他人が自分の思った通りに動かないと、不愉快になるという反応はよくない。人に「できるようになる努力」を強要するのは、よくない。どうして、こういうことがわからないのか?

「できると言えばできる」なんて言葉は、自分を対象にして言うべきで、他人を対象にして言うべきではない。

たぶん、本人は、相手の可能性を信じているという意味で、いいことをしたつもりなのだろうけど、その言葉を投げられた他人が「できない」と判断していて、なおかつ、「できない」という判断が正しい場合は、「できると言えばできる」という言葉は、無意味であるばかりか有害なのである。

その、言われる他者にとって、有害。

どうして、こういうことがわからないのか? 


 

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。