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(本当は、「努力をすればできるようになる」という考え方が、社会に悪影響を及ぼしているという論考の、最後の部分になるけど、あいだをぬかして、さきに書いておく)。
番号をつけるとしたら(5)ぐらいかな?
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「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方があわさった場合、「努力してもできるようにならない人」にストレスを与える。このストレスは、自身の存在にかかわることなので、めったに消えない。常に、ストレスにさらされているということになる。
このストレスは、「努力してもできるようにならない人」本人にとっても、社会にとっても、よくないストレスだ。はっきり言ってしまうと、そういうふうに、「努力してもできるようにならない人」を追いつめるから、爆発する人が出てきてしまう。
もちろん、そういうストレスで爆発する人だけではないと思う。しかし、爆発する人のなかには、「努力すればできるようになる」と圧力をかけられたにもかかわらず、できなかった人が含まれていると思う。
ここで出てくる「爆発」というのは、ストレスが爆発して他人を傷つけるような行為をしてしまうことを意味している。何度も言うけど、部分にしかすぎない。ほかにもストレスになる理由あるので、ほかの理由で爆発する人もいる。
しかし、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方が両方とも成り立っている社会では、「努力をしてもできない人」は相当においつめられることになる。
また、「できる」というのが、ひととくらべてできるかどうかということなのだから、一応は、適応して働いている社会人も、たいへん強いストレスにさらされていると言っても過言ではない。単にできるのではなくて、「もっとできる」ようにしなければならないからだ。まわりの人の平均か、あるいは中央値よりはできるようにしなければならない。
けど、そうなると、平均があがっていく。けど、実際には「できない」人がいるので平均はそれほどあがらずにすむ。しかし、まわりの人との「比較」が「できる」とか「できない」といったことのベースになっているということは意識しておこう。
ようするに、一応は適応して働いている人も、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすれば、もっとうまくできるようになる」という考え方の結合で、相当にストレスをため込んでいるものと想像できる。
「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方は、日本社会において、人を仕事に縛り付ける役割をしていると思う。それは、多大な圧力をうむことになるので、両方ともうたがってみる必要があるのではないかと思う。
特に「努力をすればできるようになる」という考え方は、いままで見てきたように、理論的に、破綻している。すべての場合において努力をすればできるようになるということは言えないにもかかわらず、あたかも、すべての場合において努力をすればできるようになるというような文脈でその言葉が発せられるのだ。
この言葉を言われたほうは「できるようにしなければならない」のである。「努力をしてもできない」あるいは「努力をしてもできなかった」ということは、認められない。
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「できる」とか「できない」ということが、他者との比較によって出現する概念だということは、もっと、正確に論じなければならない。あとは、「できるようになる」という考え方と「もっとできるようになる」という考え方はちがうのだけど、おなじこととして認識されているところがある。「できるようになる」と「もっとできるようになる」は一度、別のこととして考えて、あとで、同じ意味を有している場合について考えようと思う。
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「努力して、できる楽しみ」はある。別にそれを否定しているわけではない。しかし、適応範囲が問題だ。適応範囲が自分であれば問題がない。適応範囲が「他人」だと問題がしょうじる。しかし、「努力すればできる」というのは、職場や学校において他人に発せられる言葉なのだ。それは、他人ができるようにならないとこまる人が言う言葉だ。適応範囲が自分自身なのであれば、問題はない。
「できないことでも、努力してできるようにすればいい」……本人がそうしたいのなら、もちろん、問題はない。できないと思っていたことが、できるようになれば、楽しいと思うこともある。他人におしつけるのは問題があるけど、本人が本人におしつけて、克服する状態……あるいは、できるようにする状態を楽しんでいれば問題はない。
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「その場所で努力するのが肝心だ」という考え方がある。