2021年5月8日土曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(2)言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる

「努力論」は、「努力をすればできるようになる」という理論だとする。

これは、宗教的な信仰に近い。

自分が自分に適応しているのであれば問題はないけど、相手に適応するのであれば、問題がしょうじる。どうしてかというと、「相手が努力をしてない」という認識にたって、相手を責めることになるからだ。

それは、いつまで続くかというと、Aさんができるようになるまで続くのである。

つまり、Aさんは、その作業ができるようにならないと、Bさんの叱責から解放されない。

しかし、ほんとうに、Aさんが「できない」ことを「できない」と言っている場合は、できないのだから、努力をしてもできないということになる。

Aさんが努力をしてもできないことを、「努力をすればできる」という幻想を持っているBさんが指導をすると、Bさんの幻想通りに動かないAさんが、Bさんにとってはゆるせない存在になってしまうのである。

だいたい、「努力をすればできるようになる」という幻想は、まちがっている。

そんなことが成り立つなら、「障害」という概念自体がない。

しかし、障害という概念がある。

これは、「努力しても、できない人がいる」ということを意味している。

たとえば、Cさんがコミュニケーション障害者だとする。その場合、Cさんは、努力をしても、相手の表情を読み取れるようにはならない。もし、Cさんが、相手の表情を読み取れるようになるのであれば、Cさんはコミュニケーション障害者ではないということになる。

これは、身体障害者の場合もおなじだ。たとえば、たつことができないという障害がある人がいるとする。この人が、普通にたてるようになるのであれば、その人は、普通にたてるようになった時点で、障害者ではなくなる。

もし、「努力をすればできるようになる」という幻想が正しいのであれば、たつことができないという障害を持っている障害者は、「たとうと努力すればたてるようになる」のである。

なので、「たとうとしない人が悪い」ということになってしまう。「努力をすればたてるようになるのに、努力をしないからだめなんだ」ということになってまう。「努力をすればできるようになる」のであれば障害者なんて、ひとりもいないことになる。

みんな、努力してできるようになればよいのだから……。

しかし、障害を持ってる人がいる。

これは、どれだけ努力しても、特定のあることができない人がいるということを、明示している。暗示じゃない。明示している。

 ある作業が、複数の行為の連続だとする。その場合、複数の行為のうち、ひとつの行為ができないのであれば、ある作業ができないということになる。Aさんは、ある作業ができないとする。その場合、Aさんが努力をしないからできないのか、あるいは、努力をしてもできないのかは、Bさんを含む他人には判断することができない。

もし、Aさんが努力をして、できるようになれば、それは、Aさんにとって努力をすればできることなのであるし、もしAさんが努力をしてもできるようにならないとするならば、それは、Aさんにとって、努力をしてもできないことなのである。

健常者が「ある行為」について努力をしてもできないということは、障害者が「ある行為」について努力をしてもできないということと、同じだ。その健常者にとっては、「ある行為」は障害者ができないようにできない行為なのである。

しかし、障害者が障害者であると認められているのであれば、条件がつくけど「ある行為ができない」ということは、他人から認められるはずだ。あるいは、比較的に言って認められやすい状態であると言える。

しかし、Aさんが健常者である場合は「ある行為ができない」ということは認められない。努力をすればできるようになるのだから、努力をしないAさんが悪いというとになる。

「努力をすればできるようになるのだから努力をしろ」と誰かが誰かに言った場合、言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる。

けど、「努力をしてもできないこと」はある。

その人は「努力をしてもできない」ということを言っているのに「努力をすればできるようになる」という悪の呪文を言われて、へこむのである。やる気をなくすのである。生きる気力がなくなるのである。その人は、時間の問題で、その職場をさらなければならなくなる。

努力をすればできるようになることなのに、できるようにならないのだから、さるしかないだろう。叱責され、こづかれ、なぐられても、できるようにならないのであれば、さるしかない。

しかし、その職場をさるにしろ、似たような職場にしかアクセスできない。なので、その人は、死を考えるようになる。なぜなら、「働かざる者、食うべからず」という共同幻想が成り立っているからだ。

(2)

 

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わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。