たとえばの話だけど、名前だけ店長は、一五年間、ほんとうに毎日、休日も関係なく、一日に二時間、三時間しか眠れない状態で生活してきたとする。
「過去は関係がない」とか「今現在乳注すればいい」とかと言っているやつは、その一五年間の蓄積疲労を無視しているんだよ。ガン無視している。
これが、どういうことなのか、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言っているやつは、まるで理解していない。疲労というのは、過去一五年間、毎日の、積み重ねによって、できあがったもなのだよ。
しんどいという身体感覚や、憂鬱だという感情は、過去一五年間の、積み重ねによって、できあがったものなのだよ。それを、無視して、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言う。どれだけ、がんばってきたか、わかっていないのである。バカなのである。
一〇年以上、極端につかれる生活をしてきた人に、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言うやつは、バカだ。
「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とか「過去の出来事は、記憶の中にしかないから、現在に影響をあたえない」とか「過去の出来事は現在の出来事に影響をあたえない」とかと言う人を、とりあえず、過去否定論者と呼ぶことにする。
神様視点で、過去否定論者の苦労が「並み」であり、名前だけ店長の苦労が「特大」だとする。過去否定論者の視点で、その過去否定論者の苦労が「並」であり、名前だけ店長の苦労が「並」だとする。
そうなると、名前だけ店長も、過去否定論者と同じぐらいの苦労しかしてないように、過去否定論者には思えるのである。
しかし、その過去否定論者の苦労は、神様視点で「並」なのである。「俺だって苦労した」と、ひとこといえば、過去否定論者は、名前だけ店長と同じレベルの苦労をしたということになってしまう。
「苦労」の質と量、「苦労」の持続時間と持続期間を無視してしまう。
今現在、過去の積み重ねで、こまっているのに、「過去は関係がない」と言われたときの気持ちがわかるか? わからないのであれば、主観的にはどうであれ、その人が経験した苦労と言うのは、「小」か「並」だよ。「大」でも「特大」でもない。今現在に集中すればいいというけど、今現在の作業に、集中したとしても、過去からの「疲労」がとれないのである。過去の積み重ねによって、今現在の作業がつらいものになった。だから、休ませてくれと言っているのに、「今現在に集中すればいい」と言われたときの気持ちがわかるか?