たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、竹やぶに入ったとき、蚊に刺されたという経験があるとする。Aさんは、竹やぶに入ったとき、蚊に刺されて、かゆくなったので、「竹やぶに入ると、かゆくなる」と思うようになったのだ。この経験則は、正しいのである。ただし、夏なのか冬なのかで、条件が異なる。だいたい、竹やぶはおなじようなものだけど、「あの竹やぶ」と「この竹やぶ」はちがうかもしれない。Aさんが、竹やぶに入って、作業をしたあと、蚊に刺されたので「かゆい」と言ったとする。そうすると、それを見ていたBさんが「かゆいと言うからかゆくなる」「かゆいと言わなければかゆくならない」と得意がって言うのである。Bさんは、竹やぶに入って作業をしなければならないという条件がないのだ。だから、竹やぶに入って作業をすると、蚊に刺されるという経験がない。Aさんのものの見方と、Bさんのものの見方をくらべた場合、どちらが正しいかというと、Aさんのものの見方のほうが正しいのだ。ところが、たとえば、きちがい家族による騒音が発生してくるしい思いをする場合は、竹やぶに入って作業をする場合よりも、経験する人が少ないのだ。きちがい家族のなので、普通の家族とは、騒音の出し方ちがうのである。普通の家族にわかることが、きちがい家族にはわからないのである。普通の家族と一緒に住んでいる人は、「きちがい家族が鳴らす騒音」について理解がない状態なのである。きちがい家族が騒音を鳴らした場合、きちがい家族による騒音が、生活の条件をつくってしまうのだ。この条件は、わずかな例外を除けば、ほかの人が経験したことがない条件なのである。だから、最初から無理解ぶりを発揮するのである。経験的にわかっていないから、「勉強することができなくなる」ということや「どうしても、眠れなくなる」ということがわからないのだ。ほんとうに、ヘビメタ騒音で「勉強することができなくなっている」にもかかわらず、きちがい家族が鳴らす、非常識な騒音を経験したことがない人は、「自分なら、平気だ」と思って「ヘビメタ騒音が鳴っているから、勉強することができないなんていうのは、いいわけだ」と言ったりするのである。
たとえばの話だけど、Bさんだって、Aさんと同じ条件が成り立つとき、竹やぶに入れば、体を蚊に刺されてかゆくなるのである。感覚器や神経が正常なら、かゆいと感じるのである。蚊に刺されたあと、かゆいと感じるのである。ところが、Bさんは、Aさんが「かゆい」と言ったところを見て、「かゆいと言うからかゆくなる」と言うのである。これは、かなりの高確率で、Aさんにとって不愉快なことなのである。
そりゃ、なにも知らないBさんが、勝手に、理由を考えだして、自分のことをせめるのだ。
しかも、Bさんは得意になって言ってるので、せめているつもりがない。「おまえが、かゆいと言うから、かゆくなる」という発言は、ちゃんと理由がある人にとって、かなりの高確率で、不愉快な発言なのである。
Bさんが普段「人がいやがることはやめましょう」と言っていたって、自分が、Aさんがいやがることをしているという自覚がないので、自覚がないまま「人がいやがること」をしてしまうのである。そして、Aさんが「かゆいというからかゆくなったわけではない」ということを言ったって、認めないのである。言霊信者だから、言霊の力でかゆくなったと思って、認めない。「単純なのが正しい」「アバウトでいいんだ」と言って、言霊の力でかゆくなったのではないといこうとを、認めないのである。
Bさんは、自分が蚊に刺されてかゆくなったときは、「蚊に刺されたからかゆくなった」と思う人間なのである。Bさんだって、蚊に刺されてかゆくなったときは、かゆくないのに、「かゆい」と言ったから、言霊の力によってかゆくなったのではないと思っているのである。「かゆいと言うからかゆくなる」という考え方を、Bさんも、普段は否定しているのである。ちゃんと、理由がある場合は、言霊に関係なく、その理由でかゆくなったと判断し、認識しているのである。Bさんですら、そうなのである。Bさんが蚊に刺された場合、Bさんは、言霊の力でかゆくなったのではなくて、蚊に刺されたからかゆくなったと認識しているのである。