たとえば、Aさんが言霊主義者で、Bさんが悩みを抱えている人だとする。
AさんがBさんに、言霊でBさんの悩みを解決できるということを言ったとする。
しかし、Bさんの問題は、言霊的な解決方法では解決しなかったとする。
この場合、Aさんは、Bさんの言い方に文句をつけるのである。
これが決まっているんだよ。
最初から、こうなることが決まっている。
Bさんの言い方が悪かったから、言霊の力が発動しなかったという言い方になるのだ。それこそ、言い訳だとわたしは思うけど、Aさんは、Bさんの言い方が悪かったという自分の意見が正しいと思っているわけだ。
言い方がよければ、言霊の力が発動して、Bさんの問題は解決できるのである。Aさんのなかでは、そうなっている。何度も何度も言うけど、Aさんにとっては、Bさんが「言ったか言わなかったかということだけ」が問題になっているのである。
Bさんが抱えている条件は、Bさんがどれだけなにを言っても、Aさんには、関係がないことになっている。AさんにとってBさんの条件が関係がないことだとAさんが思っているのはもちろんだけど、Aさんは、Bさんにとっても、Bさんの条件は関係がないと思っているのだ。
この決めつけがひどい。
Bさんの条件は、実際にBさんの出来事に影響を与えている。その影響を無視してしまうのである。
Bさんが「なおる」と言えば、なおるのである。Bさんができると言えば、Bさんが抱えている条件に関係なく、「できる」のである。そして、もしできなかったら、それは、Bさんの言い方が悪かったから、言霊の力が発動せずに、できなかっただけなのだという解釈をしてしまう。Aさんの思考というのは、ここまで、自動的に進んでしまう。
これも、言霊教祖や言霊セミナー講師が、そのまま言ったことを、受け売りで言っているだけなのだけど、ともかく、Aさんのなかでは、「言ったか言わなかったか」という条件以外の条件は、無視されているのである。
もちろん、後出しで「言い方」という条件が問題になる。
しかし、これも、矛盾していて「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」のだから、言い方なんて、関係がないのである。それこそ、どんな言い方で言っても、言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化するのである。
もし、言っても、現実化しないなら、言霊理論が間違っているのである。
ところが、相手の条件を認めないということが、『緩衝地帯』になっているのだ。相手の条件を認めないということによって、自分の矛盾に気がつかなくてもいい構造を維持しているのだ。
だから、言霊主義者に、どれだけ「言い方の問題ではない」ということを説明しても、言霊主義者は、聞かない。受け入れない。
言霊主義者は……「そんなのはおかしい」「理屈じゃねーんだよ」「アバウトでいいんだよ」「簡単なのが正しい」と言って、認めないのである。
* * *
そのAさんも、博物館で完全にとまっている電車に向かって「動く」と言っても、電車が動かないことは知っているのだ。「動くと言えば動く」のである。言霊理論に従えば、そういうことにしかならないのである。
たとえば、Aさんが……博物館で完全にとまっている電車に向かって「動く」と言っても、電車が動かなかったとする。その場合、Aさんは、自分の言い方が悪かったから、動かなかったとは思わないのだ。
人のことと、自分のことだと、ぜんぜんちがう認識が成り立ってしまう。
Aさんにとっては、Bさんのことはひとごとなので、Bさんの条件はまったく関係がないのだ。Aさんは、BさんにとってBさんの条件が重要な役割を果たしているということを、認めない。Bさんの条件が、Bさんの身の上に発生した出来事の原因になっているということを、絶対の意地で、認めない。
ただ単に、言ったか言わなかったかということが、問題になるのである。
そして、言ったのに、ダメだった場合は、言い方が悪いということになってしまうのである。Bさんの言い方がまずかったから、言ったとおりにならなかったのだと、認識してしまう。
このAさんの認識を、Bさんが覆すことができるかというと、できない。
Aさんは、自説にしがみついて、「言霊は絶対だ」と言い出すのである。
最初から、Bさんの条件は、Aさんにとって関係がないことだから、言霊的な解決方法をAさんがBさんに教えたあとも、Bさんの条件は、Aさんによって、無視されることが決まっているのだ。最初から、決まっている。
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ところで、駅で電車がとまっていたとする。駅でとまっているのだけなので、たいていの場合は、電車に乗っていた客がおりて、電車に乗りたい客が乗り込めば、動き出す。電車は、たいていの場合、動き出すことが決まっている。
Aさんが、この電車をまえにして、電車に向かって「動く」と言ったとしよう。そうしたら、電車が動き出し。はたして、Aさんの「動く」という言葉に宿っていた言霊の力によって、電車が動き出したであろうか?
ちがう。Aさんの「動く」という言葉に関係なく、電車が動いたのである。
それは、電車の運転士が、電車を動かす動作をしたから、電車が動いたのである。そして、電車が動くしくみは、完全に、言霊に関係なく、物理的な構造として成り立っているのだ。言霊の力に関係なく、電気の力で電車が動いたのだ。
* * *
しかし、Aさんが言霊主義者だと「動くと言ったから、電車が動いたのだ」と思ってしまうのである。Aさんが「動く」と言ったあと、電車が動いただけなのだけど、Aさんは、「動くと言ったから、電車が動いた」と誤解をしてしまう。
これは、ずっとまえから言っていることなのだけど、言霊主義者は「言ったから」と「言ったあと」の区別がついていないのである。
積極的に、誤解をして、「言霊がある」ということの証明として使ってしまう。
「自分が動くと言ったから、電車が動いた」と思って、「だから、言霊はある」と思ってしまう。何度も言うけど、「から」と「あと」を誤認しているだけなのだ。
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けど、ほんとうは、言霊主義者のAさんも、「これから動くことが決まっている電車のまえで、自分が動くと言ったから、電車が動いた」というような説明はしないのである。
現実的なことだと、「電車が予定通りに動くのはあたりまえだから、動く」と思っているのである。あるいは、「電車は、乗客を乗せたら、動くのがあたりまえだ」と思っているのである。
Aさんが、駅のプラットフォームにいるとき、電車を指さして、「動く」と言ったとする。
そして、電車が予定通りに動いたので、「自分が動くと言ったから、動いたんだ」と言うことは、まずない。
言霊主義者でも、それはやりすぎだと思っているところがある。言霊主義者でも、そういうバレバレのことはやらないようにしようと思っているのだ。だから、言霊主義者の、現実感覚というのは、微妙なものなのだ。
* * *
『博物館』と書いたけど『車両基地』にしようかと迷った。駅のプラットフォームのところに停止している電車、博物館のなかにおいてある電車、車両基地においてある電車……。みんなちがう状態の電車なのである。これは、認知とメタ認知によって、ちがいがわかるのだ。書いた場合は、記述によって、ちがいがわかるのだ。
言霊主義者も、じつは、電車の車両を見たとき……認知とメタ認知によって、数分以内に動くかどうかということを判断している。しかし、「言った」とか「言わなかった」と言うことのなかには、認知とメタ認知が含まれていないのである。
何度も言うけど、言霊主義者だって、普段は、認知とメタ認知によって条件を判断して暮らしているのである。自分が一倍速で体験していることに関しては、ちゃんと、自分の五感と頭で感じる認知とメタ認知が成り立っているのである。成り立っているのだけど、成り立っているという自覚がないのだ。
言霊教祖が言う簡単な例を信じてしまう。言霊教祖が言う簡単な例というのは……例から抽象への飛躍が起きやすい例なのである。「抽象」と書いたけど、ようするに、抽象世界では、一律に、成り立つものとして説明されてしまうのである。
もう、前にも書いたけど、例から、抽象的な法則へと飛躍してしまうのである。けど、これが、間違った飛躍なのだ。
ほんとうは、法則性なんてない。
最初から間違った例を使って、言霊の法則が成り立っているということを説明するのである。言霊教祖は説明するのである。
肝心なことは、言霊主義者は相手(他人)の条件を無視してしまうけど、自分が普段、条件を考えて行動しているということも、無視してしまうということなのである。言霊に注意が向いているときは、自分が普段、認知やメタ認知によって認知できる条件を重視しているということを、無視してしまう。
言霊に注意が向いているときは、言霊の法則が、あらゆる条件を排除して成り立つという気分になっているのである。気分なんだよね。気分次第で言うことがちがう。