『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』の続きをちょっと書こうかな。
『自分の身に起きたことは、すべて自分の責任だ』という考え方が『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』という考え方に置き換わってしまうのだ。
その場合、自分が他人に、なにか悪いことをやったにしろ、他人の身に起きたことは、他人の責任だということになる。自分がなにか悪いことを他人にしたかどうかの判定というのは、たいていの場合、自分がすることになる。裁判所で決着をつけるときもあるけど、たいていの場合は、本人の主観に任されたことなのである。
なので、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つとは限らない。
ところが、これもまた、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つはずだという前提が成り立っているのだ。
だから、自分が相手になにか悪いことをした場合も、基本的には、『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』ということになってしまう。「すべては自己責任」という考え方は、基本的には、自分が被害を受けたと感じるときにどう思うことにするということに対応している。
なにが起きても、自分の責任だと考えることによって、相手をせめる気持ちがなくなるというのが、本来の、自己責任論の在り方だった。
それは、自分に対する自己責任論だったのである。ところが、他人の身に起きたことは、すべて(その)他人の責任だという自己責任論にすりかわっていくのである。
この場合、『他人の身に起きたことは、すべて、(その)他人の責任だ』と考えているわけだから、他人の落ち度をせめることになる。自己責任論ではなくて、他人責任論になってしまう。その他人に「落ち度がない」場合も、じつは「落ち度がある」と判定されて、その他人のせいになってしまう。
この場合、被害者側にも落ち度がある……に……決まっているという考え方が成り立っている。そして、被害者がの責任を追及するわけだけど、加害者側の責任はまったく追及しないのである。
加害者は、「自己責任論」において、「自己」ではないのだ。
わかるかな?
加害者側だって、いつも加害者であるわけではなく、ある特定のことについて、加害者側になっただけだ。こころの道徳としては、自分の行為が、相手に与えた影響を考慮しない場合は、ほんとうに他人に危害を加えた場合も、『自己責任論の範疇外』になるのである。
わかるかな?
法的な裁きがくだっった場合、加害者であるということが、決定される。それは、法的な手段なのである。この法的な手段は、『こころのなかの道徳』に影響を与える場合もあるけど、まったく影響を与えない場合もある。
ようするに、感じ方については「個人の王国」なのである。個人が、たしかに自分は相手(他者)にこれこれこういう被害を与えたということを認識しなければ、『こころのなかの道徳』には影響を与えないのである。
その場合、自己責任論だと、ここで想定されている加害者側人は、責任を感じなくてもすむのである。
自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論なのである。
自分が、被害を与えた(かもしれない)という場合は、被害を与えたという道徳的で主観的な認識がなければ、自分が、被害を与えたということにはならないのである。
外側で、法的に処理をされたとしても、本人の道徳的で主観的な認識はまったくかわらないかもれしない。
どういうことで他人に迷惑をかけるかということに関する考え方は、個人によって千差万別だ。個人によって、ぜんぜんちがうのである。だから、他人に迷惑をかけたということに、鈍感な人は、他人に迷惑をかけた場合でも、まったく自己責任を感じないということになる。
* * *
自己責任論の基盤は、自分が相手の行為によって、被害を受けたと主観的感じる側の人が、自分の責任だと思いなおす場合の……責任論なのだ。だから、自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人は、そもそもも、その行為に関する責任なんて、感じないのである。
そして、自己責任論というのは、(外側から見れば) 自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人を援護する理論なのである。そういう「自己責任論」に切り替わっている。
* * *
自分が(被害を与えた)場合は、そもそも、自己責任論の範疇外ということになる。自分が(被害を与えた)場合は、「自己責任論」ではなくて、単なる「責任論」になる。こういうところに、トリックがある。
* * *
自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論だと書いたけど……自分が被害を受けたということに関しては、社会制度的な被害も含まれる。ともかく、主観的に「自分が被害を受けた」と感じることに関しては、自己責任論の対象になる。そして、自己責任論のなかでは、「自分が他者から被害を受けた」ということは、否定されるのである。ようするに、否定されることが、理論的に決定されている。
だれか、個人が自分にしてきたことに限らず、たとえば、社会制度的に自分が被害を被ったということを感じた場合は、自己責任論の対象になるということが重要だ。
なんらかの制度で、自分が不利な立場になったということに関する自主的な認識も、「自己責任論」の対象になるのである。
そして、「自己責任論」のなかで、その自主的な認識は否定されるのである。
「たとえ、制度的に不利な扱いを受けたとしても、それは、自分の責任なのだ」と思い直すための理論なのだ。『思う』のではなくて、『思い直す』のである。
ようするに、自己責任論のまえに、なまの感覚として、「こういう不利益が生じた」という感覚が、まず成り立っている。