いま、近くで、工事をしていて、ガーガーブーブーと、うるさい。けど、このくらいの騒音なら、本も読めるし、勉強もできる。不愉快だし、抵抗を感じるけど、勉強ができるぐらいの騒音だ。
みんなが、「騒音」として認知・認識しているのは、この程度の騒音なのだと思う。自分が、この世で、一番、一番、きらいな音が、めちゃくちゃにでかい音で鳴っている状態とはちがうのである。これが、わかっていないやつが多い。
これ、ヘビメタ騒音と言うのは、ぼくにとって、一番苦手な音なのだ。そして、きちがい兄貴は、きちがいなので、めちゃくちゃにでかい音で鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、すべての常識と倫理と道徳を無視して、自分の欲望に従って、きちがい的な音で鳴らしたのである。これは、よそのうちでは、鳴っていない音なのである。よそのうちでは、鳴りえない、音のでかさで鳴っている騒音なのである。だから、よそのうちの人は、きちがい家族によって、つくりだされるこの空間を経験していない。きちがい家族の騒音によってつくりだされる、この時間を経験していない。経験していないのである。ところが、みんな……ぼくの経験の範囲で言うと……ほんとうに、みんながみんな……「自分だって苦労した」と言うことを言うのである「自分だってつらい思いをした」と言うのである。「自分だってつらい思いをした」と言うのは、事実だと思う。けど、同質同量の騒音を浴びて暮らしていたわけではないのだ。ここのところがわかっていない。そりゃ、きちがい家族と一緒に暮らしていなくても、つらいことはいくらだってある。思い通りに行かないことはいくらだってある。不安を感じることはいくらだってある。不満を感じることは、いくらだってある。しかし、それは、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らす前の、ぼくが感じていたレベルの、ひらいこと、思い通りに行かないこと、不安、不満なのである。ところが、「自分だって苦労した」のひとことで、ぼくとおなじレベルの、しつこい騒音を経験したということになってしまうのである。ぼくとおなじレベルの、しつこい騒音を経験した自分が、通勤できるのだから、エイリだって通勤できるということになってしまうのである。エイリとおなじレベルのしつこい騒音を経験した自分が、勉強できるのだから、エイリだって勉強することができるということになってしまうのである。なかには、「家に閉じこもって、勉強をした」ということが、「苦労だ」と言うやつもる。
まったく反対のこと言っているのである。
俺は、勉強をしたくても、きちがいヘビメタ騒音で、勉強することができなかった。それが、苦労なのである。好きなだけ勉強できる状態で勉強した……。それが苦労だというのだ。エイリと同質・同量の苦労をしたという意味で、そいつは、「自分だって苦労した」と言うのだ。そして、ほかの人たちは、ほんとうは……ほんとうのことを言ってしまえば、きちがい家族と一緒に住んでいないので、きちがい家族が鳴らす騒音に一〇年以上毎日さらされ続けるということがなかったのである。一四年と六か月間とは言わないけど、中学高校の六年間を、きちがい的な騒音……に、毎日さらされるという経験がなかったのである。毎日さらされるという経験がなかったのに、同質・同レベルの経験があるということになってしまうのである。そして、それは、見積もりが誤っている。間違った見積もりをしている。その発言自体が、まちがった認知に基づいた発言だ。基本的に言って、「わかっていないから」……過小評価して、間違ったことを言っているのである。間違った見積もりをして、間違ったことを言っている。しかし、こっちには、それを証明する手立てがない。証明なんできるわけがない。