人に親切にすれば、しあわせになれるということだけど、ちょっとだけ、説明しておく。
たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。で、Bさんがエクセルの使い方について質問してきたので、Aさんが、親切に使い方を教えてあげたとする。
そうしたら、Cさんが、Aさんに「ものすごく、くわしいんですね。エクセルやワードを教えてらっしゃるですか」と訊いたとする。
で、Aさんは、当時、無職だったので、「いや、無職ですよ」と簡潔にこたえたとする。そうしたら、Bさんが、無職にものを教えられたということにかんして、腹をたてたとする。
これ、ほんとうにあることなんだよ。
自分のプライドがゆるさないらしく、無職に教えられたということに(Bさんは)腹をたてた。腹をたてたとする。
で、「おまえは、気にくわない」とAさんに、言ったとする。Cさんは「自分がへんなことを訊いたから、へんなことなっちゃって」と言ったとする。
Aさんは、Bさんに親切にしたんだよ。親切に説明してあげた。
けど、どうだ? Aさんは、親切にしたことで、しあわせになったか?
しあわせになってないじゃないか。
無職に、教えられると、腹をたてる人というのは、わりといるんだよ。一定数いる。人に親切にしてあげたことで、トラブルが発生している。
これ、Bさんは、Aさんがパソコンの講師だったら、納得して、文句を言わないんだよ。なんだったら、「さすがパソコン講師の人ですね」とおべっかを使うかもしれない。
これだって、偏見のひとつだ。自分は、無職よりすぐれているはずだというプライドをもっていたのに、そのブライトをキズつけられた。だから、腹をたてている。
実際には、そういうことまで、「親切行為」に影響をあたえる。親切行為も、一意には決まらない。「XをすればYになる」というような構造をもった文において、X側の項目が「一意に決まらない」ということは、ものすごくでかい意味をもっている。
これがわからないのかな?
X側の項目が「一意に決まらない」のであれば、その文は……法則性がある文としては……無意味だ。あたかも、法則性があるようなことを言っているけど、法則性なんてない。X側の項目が「一意に決まらない」……これのもつ意味がわかってない。文としては、それは、たしかに、意味をもっていると言えるけど、法則性がある文としては、意味がない。
文に意味があるとしたら、「その人が、そういうことを言いたい気持ちになっているんだなということが、わかる」というような意味なのだろ。しかし、すくなくても、「XをすればYになる」というような構造をもった文としては、無意味だ。