これ、顰蹙を買うかと思うけど、言っておく。自己責任といっても、打っちゃったら、責任がとれないことがしょうじる。打っちゃったら、責任をとれないことがしょうじる。
自己責任論者は、自分の身に、マイナスであることが生じたら、それは、自己責任だと言っているわけだ。
けど、じつは、打ってしまうことで、他人の身にマイナスであることがしょうじる。その場合、自己責任論者は、自分の責任だとは思わないので、まったく責任なんてとらないのである。とろうと思うということが、まったくないのである。
どうしてかというと、「他人の身にマイナスであることがしょうじる」と考えてないからだ。
けど、他人の身にマイナスがしょうじる場合だってあるのである。 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじることがある。
けど、自分が、 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじたということを認めないのであれば、あるいは、意識にすらのぼらないのであれば、そのままなのである。責任なんてとれるわけがないだろ。責任があると思わないわけだから、責任なんてとれるわけがない。
それから、責任をとることが、可能なのかどうかという問題もある。責任をとることが、そもそも、可能なことではない場合は、いかに自己責任論者だとしても、責任なんてとれない。可能ではないのだから、とれない。自己責任論者というのは、だまされている。即席・洗脳だ。
自己責任論というのは、ワクチンのためにはやらせておいた考え方なんだよなぁ。
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フラットアースという考え方は、陰謀論のためにはやらせておいた考え方だ。これは、根が深い。
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自己責任論というのは、こまっているほうをいじめる思想なのである。こまっているやつがいたら、「そんなのは、こまっているやつの自己責任」と言って、こまっている人をさらにこまらせるのだ。こんなの、悪質なあおりとおなじだ。「どんな場合だって、自己責任」なのだから、こまっている人に責任がない場合は、こまっている人は、不愉快な気持になる。「どんな場合だって、自己責任」というのは、架空の話。こまっている人にとっては、こまっているのは、現実の話。わからないかな? 勝手に、「こまっている側に責任がある」「やられた側に責任がある」と決めつけているだけなのである。現実世界で発生したことを考えず、現実の状態を考えずに、「どんな場合だって自己責任だから、あなたの場合も自己責任」と勝手に、決めつけているだけなのである。仮想、架空の、クソ理論なのである。架空の前提で、現実に起こったことについて、勝手に決めつけている。自己責任論を振り回すやつの頭のなかに、「架空の現実」があって、その架空現実のなかでは、すべて、やられたほうの責任だということになっているのである。なので、どの現実的な出来事にも、「やられたほうの責任だ」ということを、あてはめることになる。けど、現実的な出来事は、現実的な出来事なのである。個々の具体性をもつもなのである。架空の出来事ではないのである。頭のなかで、だれかがだれかになにかをするというタイプの出来事を考え出し、頭のなかで、抽象的に「それは、なにかされたほうの責任であるにちがいがない」と考えているのである。実際には「責任にちがいがない」という推量の部分がとれて、「責任だ」という断定の部分に置き換わっている。
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自分を対象とした自己責任論ならいいけど、他人を対象にした自己責任論を振り回すなということを書いたけど、自分を対象にした自己責任論も、すべての場合において、肯定されるわけではない。
たとえば、一億二〇〇〇万人のうち、一億人が被害を受けたとしよう。一億人が「すべては自己責任だ」と訴えることをあきらめたら、残りの二〇〇〇万人も影響がある。国が一億人にひどいことをした場合、ひどいことをされた一億人が、みんな、「すべては自己責任」と自分の責任だけを追及して、国の責任を追及しなかったらどうなるか?
二〇〇〇万人が傷つく。
だれかが、声をあげなければ、ほかの人たちが傷つく可能性がある。だれかが、声をあげなければ、傷つく人が、もっともっと、増える可能性がある。自己責任論というのは、声をあげさせないようにする、思想だ。
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自己責任論というのは、たしかに……「自分に落ち度があると考えると、怒らないですむようになる」……というような高尚な?考え方を含んでいる。あたかも、アンガーコントロールに有効なような感じがする。
けど、その光の部分は、ニセの光だ。
社会的にはやらせたのは、やられたほうをいじめ、声をあげさせないようにするためだ。社会的に、はやったというのが、問題なのである。だれかひとりが、勝手に自己責任論を思いついて、本人が思っているだけだったら、こんなことになってない。
よさそうな話というのは、ニセの光を放っている。ニセの光に弱い人たちがいるんだよなぁ。その人たちが、多数派であれば、世界は、闇に満ちてしまう。ニセの光を放っているものが、「人をひきつけ」「人をたきつけ」悪いほうに誘導する。
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だまされた一億人は、残りの二〇〇〇万人に対して、だまされた責任を感じてくれるのかというと、感じないと思う。だから、自己責任論者が、自己責任だと思える範囲というは、じつは、限定されている。ほんとうは、二〇〇〇万人に対しても、責任があるのに、一億人の自己責任論者が、残りの二〇〇〇万人に対して、まったく責任を感じなかったら、自己責任論者のなかでは、残りの二〇〇〇万人に対して、責任があることにならないのである。しかし、一億人がだまされてしまったことによって、国は、ますます、ひどいことができるようになる。一億人は、悪いほうにコマを推し進めてしまったのである。なら、悪いほうにコマを推し進めた責任がある。