「努力したかどうかは、一意には決まらない」ということを書いたけど、これは、重要なことだ。けど、重要なことだと、多くの人は認識しないだろう。特に、「努力をすれば成功する」と思っている人は、ぼくの言っていることを認めないと思う。
問題なのは、最初からセットされているということだ。それこそ、いいわけがセットされているのだ。そして、努力したかどうかが、一意には決まらないのだから、「相手」が失敗したら、「そんなのは、努力したことにならない」と言えばすむ話になっている。
「相手」といういい方を「行為者」といういい方にしよう。
とりあえず、Xをすれば、Yになるという助言を聞いて、その通りにした人を、行為者と呼ぶことにする。行為者は、努力をしても、努力をしたことにならないのである。もし、その行為者が失敗したなら、あるいは、成功しないなら、「努力をしてない」ということになってしまうのである。
あるいは、「じゅうぶんでない」とか「回数がたりない」とか「熱心さがたりない」とか「こころをこめてない」とかというようなことが言われる。この 「じゅうぶんでない」とか「回数がたりない」とか「熱心さがたりない」とか「こころをこめてない」とかというようなことが、最初から、セットになっているのだ。
行為者が、Yにならなかったら、行為者の行動が不適切だから、Yにならないのだということになる……ということが、最初から……まったく見えないけど……「XをすればYになる」という法則性があるような文のなかに含まれている。
もし、Yにならなかったら、「こう言ってやろう」ということが決まっている。
だから、あとだしジャンケンで、どのようにも言えるという要素を残しておくのだ。
ようするに、「XをすればYになる」という文がまちがっていたのではなくて、「行為者が、じつはXをしてないから、Yにならない」ということを言うのだ。
こういう、いいわけを、用意しておくと、「XをすればYになる」という文が正しいということを言うことができるのだ。
しかし、まちがっている。
あとだしジャンケンで、「行為者がXをしなかったから、Yにならない」と言って、法則性がないということを認めない。法則性がないということを認めないようにするために、Xしたかどうかを一意には決められないようにしておくのだ。
行為者がYにならなかったら、「行為者はXをしたことにならない」と言って、行為者をせめれば、「文が正しい」ということを維持できる。こういう、しかけだ。「きたないやり方だな」とぼくは思うけど、ほかの人はそういうふうに思わないようだ。