きちがい兄貴が、ほかの人が理解できないことを、しらーーっとした顔つきで、毎日、頑固にやり続けた。ほかの人は、まったく理解できない。くそ凡人についてずっと書いてきたけど、普通の人の反応というのが、くそ凡人の反応なのだ。昨日も書いたけど「エイリさんが、気にせずに、がんばればいい」ということを言ってくる。がんばってきたから、働けない体になっているのに、がんばれば、できるようになるというのだ。きちがい的なきちがい兄貴とはちがうけど、「無理だ」ということを、ガン無視している。これ、ガン無視発言なのだ。自分がやられてないから、一倍速で経験してない。経験してないから、「無理だ」ということがわからない。そして、言霊主義者は「言ったことが現実化する」から「できるできると言えばいい」と言う。引き寄せ主義者は「騒音を引き寄せちゃったからダメなんだ」「いいことを引き寄せればいい」ということを言う。……なんだこれ?? なんだ、これ??
自分が無理なことを言っているという自覚がないんだよな。この態度は、きちがい兄貴の態度とちょっと似ている。もちろん、くそ凡人、言霊主義者、引き寄せ主義者は、ヘビメタ騒音を鳴らした張本人ではない。この人たちは、ヘビメタ騒音とは関係がない。「理由」をつくってない。それは、事実だ。この人たちは、きちがい家族ではなくて、一般的な家族と一緒に住んでいる。あるいは、住んでいた。なので、きちがい家族が、どういう意地で、どういう感覚で、やってしまうか、まるでわかってない。そのことが、無理解につながるのは、わかる。無理解というのは、やられてないから、「無理だということがわからない」ということだ。しかし、こっちの事情を考慮せず、「無理なこと」を言ってくる。「無理だ」と言っても、カルト理論を振り回して「無理だ」ということを認めない。日本労働教徒についは、最近、語ってないけど、日本労働教徒もおなじだ。「無理なこと」を言ってくるのである。「体をならせばいい」と言ってくる。「週三回でも働いて、体をならせばいい」ということを言ってくる。「無理なのだ」ということを、こいつらも、まったく認めない。こいつらだって、きちがいヘビメタ騒音……自分にとって、この世で、一番苦手な音を、至近距離で、家族に、ずっとずっと鳴らされ続けるということを、経験すれば、「働くことができない体」になるのに、それが、わからない。こいつらの「わからなさ」は、きちがい兄貴とおなじだ。こいつは、こいつらで、わからないのだ。こいつらにとって、働かないのは『悪』なので、こいつらにとって、『悪はエイリだ』ということになる。こいつらにとっては、どんな理由があっても、働かない人が悪なのだ。そういう感覚が根底にある。きちがいヘビメタ騒音でむりなんだ」と言っても、無理だということを認めな。無理だということを認めずに、「こうすればいい」と無理なことを言ってくる。本人は、「無理なことを言っているつもりがない」のだ。九割以上の人間が、こういう反応をかえしてくる社会なのだから、俺にとっては、生きにくい社会だ。九割以上の人間と書いたけど、赤ん坊や子どもは、ぬかしていい。ようするに、社会人の普通の人……大人の反応が、こういう反応だ。無理解ぶりを発揮した反応なのだ。きちがい家族による騒音を毎日、十数年間も浴びせられると……いや、七年間浴びせられると、「働けない体になる」ということが、根本的にわかってない。こいつらは、みんな、「エイリさんがさぼって働かない」という前提でものを言ってくる。それ自体が「とても失礼なこと」なのに、それに気がつかない。自分は「あたりまえのことを言っている」と思っている。自分は「正しいことを言っている」と思っている。「無理なことなんて言ってない」と思っている。ところが、「無理なこと」を言っている。本人がわかってないだけ。きちがい家族と一緒に住んだことがないからわかってないだけ。きちがい家族による、しつこい、しつこい騒音を人生のなかで経験してないから、それがどういう効果を及ぼすのか……不可避的に及ぼすのか……ぜんぜんわかってないだけ。わかってないだけなんだよ。ところが、『自分は』経験してないので、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくる。いやーー、それ、一倍速で経験したことがないから、そう思っているだけだから……。まちがった前提で、ものを言うな。
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くそ凡人から「生きがたさについて考えてみましょう」と言われたことがあるけど、そのくそ凡人は、言霊主義者で日本労働教徒だ。そして、「エイリさんがさぼって働かない」という前提で「週三回でも働いて、体をならせばいい」ということを言ってきたやつだ。おまえが、おれの生きがたさをつくっている。もちろん、きちがい兄貴によって、生きがたい状態になったのだけど、おまえは、俺の生きがたさを少しだけ、増やしている。『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが、多い社会と、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが、少ない社会を、くらべた場合、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが少ない社会のほうが、ぼくにとって、生きやすい社会なんだよ。
きちがいヘビメタ騒音で働けないからだになった。これは、通勤して働けないからだになったということだけど、家で働くにしろ、基本的な生活体力をヘビメタ騒音でうばわれてしまったわけだから、くるしいことにはかわりがない。きちがいヘビメタ騒音で……ほかの人にはない!騒音で、睡眠障害になってしまったのだから、いろいろなところでトラブルがしょうじてくるしいことには、かわりがない。生きにくくなっている。生きがたくなっている。けど、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが多いということも、生きがたさの、原因のひとつだ。こういうやつが多いと、より、生きにくくなるのである。
『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提だけど、これは、『エイリさんは、働けるのに、さぼって働いてない』『エイリさんは、働けるのに、あまえたことを言って働いてない』という前提が暗示されている。これ、内包されていると言っても、いいんじゃないか。ともかく、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを考えるやつは、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつは、同時に『エイリさんは、働けるのに、さぼって働いてない』『エイリさんは、働けるのに、あまえたことを言って働いてない』と考えているやつなのである。
失礼だろ。こういう失礼な前提で、無理なことを言って、「いいことをした」と思っているやつがいる。 こういう失礼な前提で、無理なことを言って、「いい助言をした」と思っているやつがいる。ほんとうに、こういうレベルのやつが多い。こういうレベルなんだよ。