ヘビメタ騒音期間中の人づきあいや、ヘビメタ騒音後の人づきあいというのは、基本、「そういう勘違い」にのろわれている。これ、のろいなんだよ。みんながみんな、勘違いする。
まあ、勘違いの程度はある。
だから、ほとんど勘違いしない人は、勘違いしない人としてカウントするけど、勘違いする人が九九・九%だ。ほとんどの人が、勘違いして、勘違いな反応をする。前提自体がちがうのだけど、前提自体のちがいに気がつかない。
その人たちのヘビメタ騒音に関する「前提」というのは、まちがっているんだよ。まちがっているのに、まちがっているということに気がつかない。
そのまま、自分の前提が正しいと思って、「意見」を述べる。
これは、のろいだ。
のろいでしかない。
実際、九九・九九九九九%の人が、きちがい的な家族の騒音に、ずっとずっとずっと何年間も十数年間もやられてないわけだから、この人たちとの付き合いは、のろいがまとわりついたものになる。
きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタ騒音をやられると、ほかの人とうまくいかなくなるんだよ。どれだけがんばっても、だめなんだよ。どれだけがんばっても、だめだということが、これまた、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の態度で!と言っているだろ。
きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、あの音をずっとずっと毎日鳴らされ続けたら、影響をうける。不可避的な影響だ。これも、ほとんどの人は、不可避的な影響だと思わないのである。
きちがいヘビメタの影響は、一日の範囲でも、でかいけど、ほかの人……やられてない人にとってみれば、「そんなのはなんでもないこと」だ。
基本的に、そう思ってしまうのである。
どうしてかというと、その人のうちには、きちがい家族がおらず、「よそじゃ絶対に鳴らさないような騒音」を鳴らす人がいないからだ。
「よそじゃ絶対に鳴らさないような騒音」なのだから、よその人は、経験してない。
自分が経験した騒音でものを言う。自分が抽象的に思い浮かべる「家族」の話をする。ぜーーぜん、ちがうのだけど、ぜーーんぜん、ちがうということに、気がつかない。
こっちがどれだけ詳細に説明しても、気がつかないのだから、気がつかない。ちがいがわからない。ちがいがあるということが理解できない。
そうすると、ヘビメタ騒音の影響を「軽く見て」まちがったことを言いだす。けど、これだって、まちがったことだとは思ってないのである。
ヘビメタ騒音の影響を「軽く見ている」という自覚があるのかどうかはわからないけど、たぶん、自覚なんてない。ほんとうに軽く見て、軽く見ているだけなのだということに、最後まで、気がつかない。
実際にやられたからだで、こういうやつらと、つきあうことはできない。
どうしてかというと、その日も「影響をうけている」からだ。
からだが、不可避的に影響をうけている。きちがいヘビメタ騒音がはじまった日から、ぼくはずっと、影響をうけている。
この影響のでかさが、ほかの人には、まったくわからない。
わからないから、くそとぼけたことを言う。もちろん、くそとぼけたことだと判断しているのはぼくだ。そいつらは、そいつらで、適切なことを言っているつもりなのである。