ほんとうに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音ときちがい親父の奇行で、こまったなぁ。これ、ほかの人にはないことなんだよな。そして、ほかの人にはないことだから、ほかの人は、わからない。「ぬき」で、話をしてくる。ところが、ぼくのすべてに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音ときちがい親父の奇行が影響をあたえている。他人は「むりだ」ということがわからない。認めない。ぼくが、ヘビメタ騒音生活のなかで感じた「無理な部分」というのを、他人は、経験してない。だから、わからない。じゃあ、そういう他人が、苦労をしていないのかというと、苦労をしていると思う。けど、質がちがう。量がちがう。実感があるんだよ。他人には見えない部分で、なんとか、しようと、死にものぐるい努力をしてきたんだよ。その死にものぐるいの努力のなかには「影響を最小限にとどめる努力」もある。影響をうけないのは、無理だ。けど、他人は、「質」がわかってないので、「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。経験がないので、「自分だったら影響をうけないことは可能だ」という前提が、頭のなかに成り立ってしまう。それは、しかたがないことだけど、ともかく成り立ってしまう。この人たちが、苦労をしてないかというと、苦労をしていると思う。けど、質がちがうんだよね。影響のでかさがちがう。ぜんぜんちがう。この人たちが想定している「きちがい兄貴のヘビメタ騒音とやら」の影響と、実際にぼくが日常生活のなかで経験した「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の影響が、ちがいすぎるんだよ。