「すべての努力するということにおいて、努力すれば、成功する」という文と「努力すれば成功する」という文は、意味的に等価なのだ。
その場合、赤ん坊だって、努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功するということになる。
垂直飛びで一〇〇メートルジャンプするように、努力すれば、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることに成功するというこになる。努力論者は、「そんな、むちゃなことは言っていない」と言うかもしれない。
しかし、才能がなくてできない人に、「努力すれば成功する」ということは、赤ちゃんに対して「努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功する」と言うこととおなじなのである。
「赤ん坊じゃないだろ」と言うかもしれない。
では、足がない人に、「努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功する」と言うことはどうなのか?
すべての努力するということにおいて、努力すれば、成功するんだよ。
じゃあ、普通の人に、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプするように努力すれば、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることに成功するということは、どうか。
普通の人は、どれだけ努力しても、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることができない。「努力すればできる」というのは、そのような「制限」を無視した表現なのである。「努力すればできる」というのは、本質的に「できると言えばできる」とおなじように「制限がない」ことを前提とした表現なのである。
ところで、普通の人に、走り幅跳びで八メートルとぶように、努力すれば、八メートルとぶことに成功するという場合は、どうか?
人類のなかには走り幅跳びで八メートルとべる人がいる。
なら、みんな、努力すれば、八メートル、とべるようになるのか?
そんなことはない。普通の人には、走り幅跳びで八メートルとべるような才能はない。才能がない人に、「努力すれば成功する」と言うということは……普通の人に、「走り幅跳びで八メートルとぶように、努力すれば、八メートルとぶことに成功する」と言って、走り幅跳びで八メートルとべるように、努力しろと言っているのとおなじなのである。
もちろん、多くの努力論者は、走り幅跳びで八メートルとべない。
努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになるか、真剣に考えたほうがいい。「そんな無理なことを言っているわけではない」と言うかもしれない。
しかし、条件が特別に悪い人にとっては、「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言われているようなものなのである。
その分野において才能がない人にとっては、「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言われているようなものなのである。
ところで、社会で求められる力には、かたよりがある。
普通の会社で、普通に働く能力というのは、人間の能力のなかの、一部の能力にすぎない。しかし、普通の会社で、普通に働く能力は、特別に重視されるのである。たとえば、Cさんが、走り幅跳びで八メートルとべる能力を持っていたとしても、普通の会社で、普通に働く能力がなかったとする。
その場合、Cさんは、普通の会社で、普通に働くことに、うまく適応でないということになる。
この……普通の会社で、普通に働く能力……というものが、くせ者なのだけど、とりあえず、普通の会社で、普通に働く能力と言っておく。
これ、ほんとうは、相当にあいまいな表現なのである。
普通の会社とはなにかとか、普通に働く能力とはなにかなんて、ほんとうは、うまく定義ができない。具体的な会社のなかで、求められる能力は、ちがうのである。その会社のなかでも、どういう仕事をするかによって、求められる能力がちがう。
ほんとうのことを言えば、「普通の会社で、普通に働く能力」という言葉は、抽象度が高すぎて、話にならないのである。
しかし、とりあえず、言いたいことを言うために、普通の会社で、普通に働く能力……という言葉を使ってみた。
普通の会社で、普通に働く能力……もしくは、普通の会社で、普通に働く才能がない人に、「努力すれば成功する」と言って、できない仕事を押し付けるのは、けっこう、ひどいことなのである。
それは、「普通の人」に対して「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言っているようなものなのである。
無理な努力を押し付けている。
はっきり言えば、普通の人が努力しても、走り幅跳びで八メートルとべるようになる確率は、非常に低い。まず、無理だ。たいていの人には、無理なことなのである。
それとおなじで、なにかについて才能がない人にとっては、なにかについて「努力すれば成功する」と言われても、無理なことを言われているということになる。
なにかについて才能がない人に「努力すれば成功する」と言っても、無駄なのである。無理なことを押し付けていることになる。
そして、努力をしても、けっきょく、成功しなかった人の損害というのは、成功しなかった人が引き受けるしかないことなのである。
ようするに、無駄な努力をすることで、有限の体力も、有限である人生の時間も、消費してしまうことになる。得られるのは、「自信のなさ」だ。あるいは、破滅感だ。
「無駄な努力をすることによって」自分の人生を破壊してしまうことになる。人生の時間は有限だ。無限じゃない。
走り幅跳びで八メートルとべる能力がない人は、人間的に悪い人ではない。
別に走り幅跳びで八メートルとべなくても、「性格が悪い」とは、言えない。
ところが、普通の会社で、普通に働く能力の場合は、性格が悪い人だと言われるようになるのである。努力論が変換装置として成り立っているから、能力がない人は、努力をしない性格が悪い人だと言われるようになる。
「努力をすれば成功するのに、努力をしようとしないからダメなんだ」とか、「努力をすれば成功するのに、じゅうぶんな努力をしないからダメなんだ」とかと言われるようになる。
努力論を通すと、才能のなさが、性格の悪さに変換されてしまうのである。才能がない人には「だらしがない」とか「さぼり魔だ」とか「誠実ではない」とかというようなイメージがつきまとうのだ。
つまり、努力論者や、努力論者の影響を受けた人は、だれか「才能がない人」を「だらしがない人だ」とか「さぼり魔だ」とか「誠実ではない人だ」とかと決めつけてしまうのである。
その人たちのなかでは、「才能がない」人は、「だらしがない人」「さぼり魔」「誠実ではない人」ということになる。
努力論が、そのような変換装置として機能しているのである。人のこころのなかで、他者に対する見方を、かえてしまう。努力論が成り立っていると、「才能がない人」が「誠実ではない人」になってしまうのである。あるいは、努力論が成り立っていると、「才能がない人」が「性格の悪い人」になってしまうのである。
努力論は、一見よさそうなのだけど、ほかの人をダメ人間だとみなすようなしくみに貢献する。努力論がはびこっていなければ、その分野の才能のない人は、その分野の才能がない人……だということで、終わる。
「その分野の才能がないこと」は、「その分野の才能がないこと」だけを意味して、それだけで、終わる。
その人が、あたかも「道徳的に悪いことをしているようには」みなされないのである。努力論が社会にはびこっていると「その分野の才能がないこと」が「道徳的に悪いことをしているように」みなされてしまう。
やるべきことをやらずにさぼっているのだから、性格が悪い人だということになってしまう。道徳的な人ではないということになってしまう。
その分野の才能がない人が、この見方を、否定するには、「できるようにならなければならない」のである。
しかし、「才能がないからできない」のである。別にさぼっているわけではない。努力論がはびこっていると……「その分野の才能がない人」は、そこに居づらくなるのである。
たとえば、仕事場にいづらくなるのである。あるいは、社会のなかでいづらさを感じることになるのである。