俺はもう、自分のご飯をつくるだけで、限界だぞ。
つかれが、まったくとれない。窒息死させるしかなかった?ネズミのことが気になる。まあ、ネズミシートにかかった時点で、死ぬことは決まっているんだよな。
けど、俺は、ほんとうにそういうことをしたくなかったんだよ。親父が、くさいものをずっと、部屋の中において、ネズミがくるようになった。
親父が、ネズミ対策工事に、反対した。
これ、どっちも、途中で、変更がきかないのである。こういうときの、いらだちは、並じゃない。なぐりたい気持ちを我慢したら、俺の精神がやられた。そういうことをかならず、強いる親なんだよ。
酒粕のついた……くさいくさい魚を、なんの必要もないのに、一日に、二三(にじゅうさん)時間近く、テーブルの上に置いておく……なんてことは、親父しかやらないことなんだよ。
親父が、いかにもやりそうなことなんだよ。
『親父なら、やるなぁ』と思うようなことなんだよ。
テーブルの上に、くさいくさい、魚の切り身をずっと置いておくことになんの意味があるのか?
なんの意味もないのである。
きちがい親父がそうしたくなったから、そうするのである。
それ以外の理由がないのである。普通なら、「くさい」ということを認めて、「くさいから、冷蔵庫に入れてくれ」と言われたら、くさいことを認めて、冷蔵庫に入れようとするんだよ。
ところが、親父は「くさい」ということを認めない。
これが、兄貴が、ヘビメタの音がでかいということを認めないということと、おなじレベルのことなんだよ。おなじようなことなんだよ。
親父は当時、鼻が正常だったので、「臭い」ということがわかるはずなのである。ところが、「くさい」ということを、認めると、自分(親父)が、冷蔵庫に、魚の切り身を入れなければならなくなるから、「くさい」ということを認めないようにする。
兄貴が、音がでかいということを認めると、しずかにしなければならなくなるので、「でかい」ということを認めないようにするというのとおなじなんだよ。
「でかい」ということを認めなければ、そのままやっていいということに、なるだろ。自動翻訳でそうなる。
だから、めちゃくちゃにでかい音で鳴らしているのだけど、でかい音で鳴らしているということを、認めない。
けど、でかい音で鳴らしているということを認めると、しずかにしなければならなくなるから、でかい音で鳴らしているということを認めないようにしよう……と思って、認めないわけではないんだよ。
そのときだけ、自己催眠にかかってしまって、実際にでかい音で鳴らしていないということになってしまうのである。
意識のレベルでは、「でかい音で鳴らしていない」ということになってしまうのである。無意識のレベルでの書き換えがある。
親父の場合もおなじなんだよ。
「くさい」ということは、嗅覚が正常なのでわかるんだよ。わかるのだけど、無意識のレベルで、『くさいということを認めると、たいへんなことになる』と思って、くさいということを認めないというような命令がくだる。
無意識的な命令なので、意識のレベルでは、わからない。
だから、ほんとうは、くさいことがわかるけど、「くさくない」と言っているわけではないのだ。普通なら、芝居をするところなんだよ。
ほんとうは、くさいということがわかっているけど、においがわからないような芝居をする。「くさくない」と本気で思っているという芝居をする。
お芝居なんだよ。意識のレベルで「自分が、ほんとうにやりたいこと」がわかっているなら、もちろん、芝居をせざるを得ないのだよ。
けど、それがわかっていない。「くさくない」「くさくない」「くさくない」と言っているときは、ほんとうに、くさくないつもりなのだ。
鼻が正常なら、ありえないことをしているのである。
でっ、このときの強情さがまた、異常なのである。
でっ、これは、芝居をされて、不愉快な思いをするのとは、また、ちがったレベルでの不快さがつきまとうもなのである。
これ、じつは、「感覚」に対する、挑戦なのである。相手の「感覚」を頑固に否定したことになるのである。
きちがいと、自分しかいない場合、きちがいの感覚と自分の感覚のどちらが正常なのかを、相手に、証明することができなくなってしまうのである。
そういう場面を押しつけていることになる。わかるかな?
こういうことをされれば、「自分の感覚」をおかされたことになるので、ものすごく不愉快になるのである。「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という助言をするやつは、こういうことをまったく考えていないのだ。
「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という考え方を批判されただけで、おこってしまうことが多い。ぼくの経験で言えば、一〇〇%の人がおこったのである。
本人が起こっているとき、「自分の受け止め方」をかえてくれるのかというと、かえないのだ。これ、きちがい親父のダブルパンチと、よそのやつのシングルパンチなのである。
どっちも不愉快な思いをさせられる。
よその人はよその人で、「感覚器が正常なのに、正反対のことを言う人がいる」ということを、認めない場合がある。認めない人を、認めない人と呼ぶことにする。
その場合、認めない人も、頑固に認めないのである。
うちの親父や、うちの兄貴は「感覚器が正常なのに、正反対のことを言う人」なのだ。
そして、認めない人は、頑固に、そういう人がいるということを認めない。これだって、はさまれることになる。俺がほかの人から、疑われるのである。俺がほかの人から、嘘をついていると思われるのである。
俺が、ほかの人から、悪い人だと思われるのである。そして、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音の場合は、勉強することや眠ることに、影響を与える。
ところが、認めない人は、頑固に、そういう人がいるということを認めないのだから、「勉強することや眠ることに、影響を与える」ということも、認めないのである。
そういう人はいないということになっているので、エイリのお兄さんは、そういうことをしていないということになってしまうのである。
そういうことをしていないのだら、エイリが言っているだけだということになってしまうのである。兄貴が嘘つきなのに、俺が嘘つきだと思われる構造が成り立っている。親父が嘘つきなのに、俺が嘘つきだと思われる構造が成り立っている。
成り立っているんだよ。
「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」というやつが住む世界と、俺が住む世界は、ぜんぜんちがうんだよ。
「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」というやつが考える「家族」と、俺の「家族」は、ぜんぜんちがうんだよ。
「受け止め方をかえればいい」と、ほんとうにひどいことを言う。ほんとうにひどいことを言いやがる。
こいつらもこいつらで、頑固なんだよ。