一億人の成人がいる国を考えたとする。一億人中、一億人が、「おせいぼーーの日」に、まだ、プレゼントをもらっていないだれかにプレゼントをするとする。
そうすると、理論的には一億人が、プレゼントをもらうことになる。
ならば、その一億人は、運があがったと言えるのか。あるいは、その一億人は、運があがって、しあわせになったと言えるのかどうか。
もし、人にプレゼントをあげることによって、運があがるということが、保証されていて、運があがった結果、しあわせになるということが、保証されているとする。人からプレゼントをもらうことによって、人からプレゼントをもらったので、幸福になるとする。す
べての日を「おせいぼーーの日」にすれば、毎日毎日、しあわせ度が増し、一億人中一億人が幸せになるということになる。
しかし、実際には、そんなことにはならない。人によって「条件」がちがうからだ。条件がちがうので、プレゼントを用意できる人と、できない人に、わかれる。
もし、かりに、「おせいぼーーの日」に プレゼントをもらっていない人にプレゼントをできなかった人は、ルールを守れなかったペナルティーとして、殺されるとする。そんな条件は書いていなかったけど、そういう条件が成り立っていたとする。
そうしたら、殺されることになるので、しあわせには、なれない。生きていて、しあわせな暮らしをするということだから、殺されてしまうと、しあわせな暮らしができなくなるので、しあわせにはなれない。
個々人によって、所持金がちがうということも、書いていなかった。
殺されなくても、「おせいぼーーの日」に「まだ、プレゼントをもらっていない人」にプレゼントをわたすことができなかった人は、「非常識な人だ」「ルールに違反した人だ」ということで、全員から、無視されるということになれば、無視されるというペナルティーが発生することになる。
その場合、かなりの高確率で……無視された人は、しあわせな感じがしないということになる。
書いていないけど、「Xをすれば、運があがってしあわせになる」という言い方をするときも、人によって所持金がちがうということは、書かれていない。
言及されていない。言及されていないけど、人によって所持金がちがう。
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たとえば、「ものをあげたときに、しあわせになるし、ものをもらったときも、しあわせになる」というようなことを考えたとする。「人間」は、ほかの人間にものをあげると「しあわせになる」という前提だ。
また、「人間」は、ほかの人間から、ものをもらうと「しあわせになる」という前提だ。
しかし、そこで設定されている人間は、「理想的な人」としての「人間」なのである。ほんとうは、個人個人でちがうのだけど、個人個人のちがいというものを、捨象して人間というものについ考えるのである。
「人間」は、こういうときこう感じると決めつけてしまう。
そうすると、実際に、存在している人間は、個々人的なものを捨象された人間ではなくて、個々人的なものを不可避的にもっている人間なので、ちがったことが起こるのである。
しかし、多くの人が……「人間」について考えているとき、モデルとして「理想的な人としての人間」を考えているということに関して、無頓着なのである。
だから、その前提で考えたことを、そのまま、現実にも応用できると考えてしまうのである。現実というのは、ちがった個々人でできあがっているので、その通りにはならないのである。
プレゼントという言葉を使っているので、常識的なプレゼントになると仮定して考えているのだけど、だれもが、常識的なプレゼントをするとは限らないのである。
ひょっとしたら、「ゴキブリの死骸」をきれいなプレゼント用の箱に入れて、ほかの人に渡す人だっているかもしれない。
あるいは、「使った消しゴム」がきれいなプレゼント用の箱に入っているかもしれない。全員が、おなじものをプレゼントするという前提だと、おなじものを、ほかの人ために買って、おなじものをほかの人から受け取るということになる。
これだと、「幸福感」を感じないかもしれない。
そして、たとえば、実際にこの世の人間には、「貯金」や「所持金」に差がある。余分なおカネがない人にとっては、「プレゼント」を用意することができないということになる。
しかたがなく、捨てられていた容器に、石ころを入れて、プレゼントにするかもしれない。
まあ、石ころなんて、最近では、めったに見かけなくなったので、石ころのかわりに、捨てたられていた紙くずを入れるかもしれない。すたられた容器に、捨てられた紙くず入っている「プレゼント」をもらって、幸福感を感じるかどうかはわからない。
ようするに、「プレゼント」をもらえば、人は幸福になるという前提が間違っている。
欲しいものではなくて、いらないものや、きらいなものをもらうと、不愉快な気持ちになる「場合」がある。
現実の場面というのは、「理想的な人間」によってつくられているのではない。
現実の場面というのは、理想的な人間に近い人間や理想的な人間からは程遠い人間や、理想的な人間に近い人間でもないし、理想的な人間からは程遠い人間でもない人間によって、つくられている。
個々人が抱える条件の差というのは、めちゃくちゃにでかい。貯金や貯蓄にも、差がある。性格にも差がある。
ところが、「人間」というものは、「こういう時に」「こう感じるものだ」ということを、空想世界で考えて、そして、現実的な個人について語りだという手法がもちいられていることが多い。
ヘビメタ騒音に関しても、ぼくは、個人の経験から思ったことを、人間に拡張して考えているわけだ。けど、ぼくは、その限界を知っている。また、証明できないということを知っている。
空想世界で「人間」なるものを考えて、「人間」というものは、こういうものだという「一方的な」「個人性を無視した」決めつけをしているわけではない。
しかし、思考のスタイルとしては、「人間」について考えるときは「人間」という抽象的な言葉を使って、思考をするのである。わかるかな?
わかるかな?
モデルなんだよ。
モデルはモデルだから、現実世界の説明に、そのまま、移植することはできない。モデルをもちいて考えたことを、そのまま、条件にちがいがある個人に適応してはいけないのである。