自転車のことで不愉快な思いをしたことを、思い出してしまった。ほんとうに、腹がたつ。ほんとう、きちがい親父のせいで、自転車に関する記憶が、よごれまくっている。歴代の自転車が全部、やられている。おやじが、かかわってくるから、自転車が、トラブルを引き起こす呪いの自転車になってしまうんだよな。これ、親父と自転車というのは、相性が悪くて、たいへんな思いをした。庭に置いてあるものだから、どうしても、親父が見てしまう。きちがい親父の、きちがい的な部分が発揮されてしまう。
どれだけ「かかわるな」と言っても、かかわってくる。そのたびに、呪いの自転車になってしまうのだ。いやな出来事が染みついた自転車になってしまうのだ。「かかわるな」という言葉が、これまた、魔法のような言葉で、きちがい親父がきちがい的な部分発揮するのだ。きちがい思考が、爆発的に発生する。「かかわるな」と二〇回言ったって、「そんなのまったく聞こえなかった」という態度で、自分が言いたいことを言ってくる。自分がやりたいことをやらせろとくいさがる。俺の目を盗んで、やってしまう。
「かかわるな」とどれだけ真剣に、何回も言っても、きちがい親父は、きちがい親父の頭を搭載しているから、きちがい脳みそが、はねのけてしまうのだ。これ、ほんとうに言いようがない。あれ、相手がどういうふうにこまるかということをまったく理解してないのだ。それが「やってやる」というようなときでもそうなる。「やってやらない」というときもそうなる。きちがい兄貴は、自分の騒音で俺がどれだけこまるか、まったくわからないままやったんだよ。だから、最後の最後まで「迷惑をかけてないつもり」なんだよ。まったく関係がない人として暮らしているわけ。で、それが、親父の自転車事件とおなじなんだよな。けっきょく、あいつらは、相手がどういうふうに思っているか、わからない。自分の行為で、相手がこまるということがまったくわからない。どれだけ、言ってもわからない。まったくなにもつたわらない。相手が「こまるからやめてくれ」と言ってきた場合、言われる前の自分の気持ちと、言われたあとの自分の気持ちがまったくかわらないのだ。それしかない。自分の気持ちしかないんだよ。だから、相手が言ってきたことは無視して、自分が言っていることを、繰り返し言う。自分がやっていることを繰り返しやる。これが、もう、脳みそ的に絶望なんだよ。これ、ほんとうに、相手が(自分の行為をどう思っているか)ということについて考える脳みそが「さいしょからない」状態なんだよな。で、自分の気持ちだけで言ってくる。自分の気持ちだけでやる。そうなると、相手が「やめてくれ」といった場合、「やめてくれ」と言ったということをまったく理解しないまま、まったく気にしないでやり続けるわけ。言い続けるわけ。これが、「無視してやろう」と思っているわけではないというのが、病的なんだよ。普通の人は、相手が言っていることは耳が正常なら聞こえるし、日本語がわかるなら、わかる。ところが、きちがい親父ときちがい兄貴の無視のしかたというのは、まるで、耳が正常じゃないから聞こえなかったというような無視のしかたであったり、日本語がわからないから、意味がまったくわからないというような無視のしかたなんだよ。もちろん、耳は聞こえるし、日本語も、普通のレベルでわかる。だから、相手が言ったことは、無意識のレベルでは理解している。けど、意識のレベルに上ってこない。意識のレベルだと、「なにか不愉快なことを言われた」というレベルの理解でしかない。「なにか」なのだ。実体がわからない「なにか」なのだ。意味がわからない「なにか」なのだ。で、普通の人なら、「聞いてないふり」をして、そういう態度をとるのだけど、きちがい親父ときちがい兄貴は、「聞いてないふり」をするわけじゃない。ほんとうに、意識的なレベルでは「聞いてない」。きいてないとおなじレベルの理解しかないんだよ。直観として「なにかいやなことを言われた」というような「感じ」しかしない。そういうものを、無視している。いちおうは、内容を理解して……意識のレベルで内容を理解して……それで、わかってないふりをしようと決めて、わかってないふりをしているわけではないのだ。あたかも、普通の人なら、わかってないふりをしているような態度なのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父の場合、ふりをしているわけではなくて、意識レベルだと、ほんとうにわかってない。ふりしているのではなくて、わかってない。無意識のレベルでは、ほぼ正確に理解している。無意識のレベルで相手の言っていることを理解していないのであれば、そういう態度にはならないのである。無意識のレベルでは言葉の内容を理解しているのだけど、意識のレベルでは、「なにか不愉快なことを言われた」というようなレベルの理解しかない。だから、もっと簡単に、芝居でなく、むりでなく、無視できる。相手がこまっているということは、もう、ほんとうに頭のなかには残らないのだ。自分の気持ちしかないから、相手の気持ちについて考える余地がない。だから、本人の主観としては、「悪いことをしている」つもりがないだ。「無視をした」つもりもない。こんなのは、普通の人ならできないことだ。普通の人がこういうことをやる場合は、自分が気がついているということについて、知っている。芝居でそういうふりをしているということに、どうしても、気がついてしまう。どうしてかというと、芝居をしようと思って、無視している芝居をするからだ。ところが、「無視しよう」と、意識レベルではまったく思わずに、聞こえてない芝居をしてしまう。そして、聞こえてない芝居をしているあいだも、「相手が自分のやっていることでこまっている」ということは、意識にはまったくまったくまったくのぼらないのである。だから、忘れてしまったわけではないのだ。一度、感覚し、認知し、認識したことを、記憶して、その記憶を忘れてしまったのとはちがう。一度も、感覚し、認知し、認識してない。だから、当然、「記憶としても残らない」ということになる。これは、忘却じゃないんだよ。最初から、感覚されてないことだ。最初から、認知されてないことだ。最初から認識されてないことだ。だから、忘れてしまったことではないんだよ。これが、重要なんだよ。ほかの人にとってはまったく重要じゃないけど、やられた人間にとっては、ものすごく重要なことだ。