しかしーーー。おれはーーー。どうしたらーー。いいんだぁーーーー。
どうしたらいいんだ?
さっぱりわからない。ぜんぜんわからない。ぜーんぜん、わからない。生まれた家が悪かったんだよな。俺は最大限の努力をしたけど、きちがい家族が、足をひっぱってダメになった。この、きちがい家族のやったことがひどいのである。足をひっぱるといっても、もうちょっと、普通は、ちがう感じなんだよな。生活ぜんぶがやられた。
きちがい的な意地でやってるやつは、まったく、つもりがないからなぁ。「やってないつもり」なんだよなぁ。じゃあ、「やめてくれ」とこっちが言って、あっちがやめてくれるかというと、それは絶対にないんだよね。つもりがないけど、いのちが、かかっている。やめてやるつもりはないけど、やっているつもりもない……こんなの、きちがい。
きちがい以外にありえない。そうやって、自分の意地を通している。押し通している。押し通すことができれば、やってないのとおなじなのである。空気のようにまったく感じない。
けど、一秒でも、ほんとうに、ゆずってやらなければならなくなったら、発狂して、発狂して、発狂して、発狂がとまらないのである。全力でやる。きちがいが、きちがいの全力でやる。顔どころか、からだじゅう、真っ赤にして、冬でも脂汗をかいて、必死にやる。
しがみついて、やる。
ゆずってない……。
ゆずってないんだよ。一秒もゆずってないんだよ。
けど、一秒もやったつもりがないまま過ごしている。自分がやりきることができれば、まったくやってないのと「おなじ」なのである。そして、「おなじだ」と思っているということを、無視する。本人の意識に入れない。
そうなると、完全無欠の、きちがいができあがる。
きちがい的な意地でやっていることは、全部無視して、やってないつもりのまま、くらしている。
本人はそれでいいけど、きちがい行為をやられて、普通の生活ができなくなったほうは、よくない。よくない。
ところが、これがまた、……あたりまえのことなんだけど……きちがい家族がいない人には、これが、ぜんぜんわからないのだ。
普通の人は、きちがい家族にやられて、普通の生活ができなくなったほうの人を、せめる。きちがい家族にやられて、不可避的に普通の生活ができなくなった『きちがい家族の周辺にいる人(その家族の一員)をせめる。
* * *
兄貴がブラックホールのようになってるということを、以前、書いたけど、ブラックホールのような家族がいない人は、ブラックホールのような家族のことがよくわかってないので、常識でものを言うのである。
そんな常識が「きちがい家」で成り立つなら、こまってないんだよ!!
こまってないの!! そういう常識をきちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい的なやり方で粉砕するから、「こまっている」んだよ。
特に、言霊とか、「思ったことが現実化する」とか、引き寄せとか、「すべては思いよう」と言っているやつとか、「すべては、おたがいさま」と言っているやつは、ぜんぜんわかってない。
わかってないところで、「あてすいりょう」でものを言ってくる。
けど、あて推量なんだけど、これまた、本人のなかでは、「絶対的なこと」だから、断定した形で言ってくる。決めつけてくる。きちがい兄貴の影響や、きちがい親父の影響を、過小評価したり、完全に無視して、現実的ではないことを言ってくる。
「現実的ではない」ということを、こいつらに説明すれば、こいつらは、俺のことをうらんだりする。きらったする。すべてはおたがいさまなんだろ……。すべて、受け止め方の問題なんだろ……。言ったことが現実化するのだろ……。こいつらは、「すべてはおたがいさま」だと思い、「すべて、受け止め方の問題だ」と思い、「言ったことが現実化する」と思って暮らしている。
それなら、「楽しい楽しい」と言って、俺との会話を楽しめばいいだろ。「言霊理論がまちがっているということを教えてもらって、楽しい」と言えば、ほんとうに!楽しくなるのだから、そういうふうに言えばいいだろ。
「すべては受け止め方の問題」なのであれば、「批判された」と受け止めずに、「自分ひとりでは絶対に気がつけないことを教えてもらった」と受け止めればいいだろ。あるいは「気づきをもらったので楽しい」「気づきをもらったので、元気になった」と受け止めればいいだろ。
あとは、省略。
だいたい、おなじだ……。
こいつらはこいつらで、批判されたときは、「怒り」の感情がわく。
それは、まあ、当然なのだけど……。それなら、本人が主張している理論で、解決すればいいのに、そういうことは、本人が主張している理論で解決しないのである。ぜんぜん、実践してないのである。その場で、すぐに実践すればいいでしょ。怒ったら、「楽しい楽しい」と言って、楽しめばいいでしょ。
* * *
そういえば、「愚痴を聞かされた」と思ったときも、「すべては受け止め方の問題」なので、「楽しい話を聴かせてもらった」と思えばいいよ。すべては受け止め方の問題なのだから、そういうふうにできるよね。
もし、そういうふうにできなかったとしても、「人間はみんなおたがいさま」「すべてはおたがいさま」なのだから、おたがいさまだよね。
日々、実践すればいいんだよ。
そういう機会をくれた人に対して、感謝をすればいいだろ。「感謝感謝」で暮らしているんだろ。「何事も感謝」なんだろ。「すべての人が自分の師」なのだろ。だったら、「愚痴を聞かされた」と思わずに、「楽しい話を聴かせてもらった」と思い、感謝すればいいでしょ。なんで、現実の場面で、実践しないのか?
この人たちは、普段から……人には……「思ったことが現実化する」とか、「ひきよせ」とか、「すべては思いよう」とか「すべては、おたがいさま」とか「すべてに感謝すればいい」と言っているのだから、これらの、理論を批判されたとしても、怒る必要はない。さらに、「愚痴を聞かされた」と思う必要もないのだ。
この人たちは、普段の生活で、本人が主張していることを実践してない。