あっ、そうだ。アドラーは「コツコツ努力をすれば、成功する」というようなことを言っている。「Xをすれば、Yになる」という型の言葉だ。
これは、条件について、言及されてないけど、条件について、言及されていない場合は、「どんな条件だって」という言葉がついているのとおなじことになる。
実際、「どんな条件だって」とか「どんな場合だって」とかという言葉がつく場合もある。説明のなかで、「条件に関係なく、コツコツ努力をすれば、成功する」ということを説明したりする。
条件について、特に言及しない場合は、どんな条件でもそれが成り立つということを言っているのとおなじだ。
だって、Xをすることだけが、条件だからだ。
Xをすれば、条件を満たすのである。ほかの条件について語られていないということは、Xをするということだけが、条件になる。Xをするという全体的な集合を考えた場合、Xをしさえすれば、Xをしたということになり、全体的な集合のなかに入ってしまう。
Xをしたのに、Xをしたという集合のなかに入らないということはないのである。
なので、ただ単に「XをすればYになる」と言った場合と、「どんな条件でも、XをすればYになる」と言った場合の意味的なちがいはないということになる。等価なのである。
「Xをする」ということの集合と「すべての条件下で、Xをする」ということの集合は、おなじなのである。
たとえば、イタイイタイ病になった人は、イタイイタイ病という条件を背負うことになる。
この条件を背負うと「成功しにくくなる」。
水俣病の場合もおなじだ。水俣病という条件を背負うと、成功しにくくなる。けど、そういう条件は無視して、ただ単に「コツコツ努力をすれば、成功する」と、無慈悲な人たちは言うのである。
そもそも、存在しているだけで、からだがいたいのなら、やれることが制限される。そもそも、日常生活ができない状態なら、やりたいことが制限される。
有機水銀は脳に影響をあたえるので、いままでできていた行為ができないということになる。
そういうひとと、元気な人の条件はちがう。
実際にはちがうのだ。
日常生活のことがままならない人は、努力をしにくい状態になっているのである。
この成功というのが、社会的な成功だとすると、社会的な成功にむかって、コツコツ努力することすらできなくなる。そりゃ、日常生活を成立させる行動のうえに、さらに、社会的に成功するための行動が必要になるのだから、日常生活を成立させる行動すら、ままならないということになると「成功」が遠のく。
実際、不可避的に、判断力や行動力に影響与える。
こういうことを言うと、「車いすに座っていた、ある人は、社会的に成功した」という例をあげて、反論してくる人がいるけど、「車いすに座っていた、ある人」の条件と「水俣病で日常生活が自分ではできなくなっている人」の条件はちがうのである。
「車いすに座っていた、ある人」は、超・お金持ちだったのである。超・お金持ちが、投資の世界で成功した。その場合、「おカネ」という条件について考えると、有機水銀にやられて、いままでやっていた漁師の仕事ができなくなった人と、お金持ちのうちに生まれて、お金持ちだった人とは、もっているおカネの額という条件がちがう。
そして、将来、入るだろうおカネの額についても、条件がちがう。
体が不自由かどうかという条件のほかに、おカネという条件があるのである。
条件は、無数にある。
そりゃ、切り口がちがえば、あたえる印象がちがう。どの部分を記述するかということだ。
何度も言うけど、条件なんて無数にある。その無数の条件のなかで、ある条件に焦点を当てて、成功するかどうかに、その条件が影響をあたえるかどうかということに、言及しただけなのである。
ようするに、反論した人は、「体が不自由でも、こういうふうに成功した人がいるぞ」ということをしめして、「体が不自由かどうかは、成功するかどうかに影響をあたえない」ということを言おうとしたのである。
しかし、「体が不自由かどうか」というのはひとつの条件にすぎない。
そして、「体が不自由かどうか」ということを問題にした場合、どういう理由で、どういう範囲において、どういう程度で、体が不自由なのかということについては、人それぞれに、ちがいがあるのである。細かく見れば、ちがいがある。
判断力に影響をあたえる毒なのかどうかということも、そういう条件のひとつだ。
ようするに、ある切り口で言及された『条件』のなかに、さらに細かい『条件のちがい』があるのである。そして、体が不自由かどうかということについて、語られるとき、おカネのことは、捨象されていた。無視されていた。なので、まあ、あとだしということになる。
けど、何度も言うけど、条件というのは、無数にある。
その切り口で、その条件について語ってみた、だけなのだ。「車いすに座っている」という条件は、水俣病で動けないという条件とは、ちがう条件なのだ。けど、動けないなら、おなじだと思って、反論した人は、そういう条件……「車いすに座っている」という条件を出してきたのである。けど、そもそも、言っていることがちがうので、話にならない。
「Xをすれば、Yになる」というのは、条件を無視した言い方なのだけど、実際には、無数の条件が「Xをすれば、Yになる」かどうかに影響をあたえている。これは、無視できないことなんだよ。けど、ライフハックや法則性があるようなことをいいいたい人は、条件を無視して、 「Xをすれば、Yになる」と言いたがる。
そして、「コツコツ努力をすれば、成功する」に関しては、「成功」というのが問題で、「成功」というのが、客観的にはどういうことなのかわからない言葉なのだ。アドラーは明らかに「社会的な成功」についてのべているのだけど、そういうこととは、本質的にちがう「成功」を持ち出す人もいる。
なので、本人のなかで「成功した」と思えば、本人がそう思っているのだから、成功したということになるというような性格をもつ言葉として「成功」という言葉を使うのであれば、なんとだって言えることになる。