現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
2023年12月24日日曜日
多くの自己責任論者
そして、「自分は自己責任で生きている」とくだらない例をあげて、満足する。「自分は、自己責任で生きているえらい人で、イタイイタイ病になって、人の責任を追及する人は、人のせいにする悪い人だ」と言うのである。すでに、ひどい目にあった人に、こういうことを言って、自己優越感にひたる。
けど、自分の実生活のなかでは、特に、「自己責任」では生きていないのである。人の行為に原因があると思っている場合は、人の行為に原因があると言って、その人(原因をつくった人)をせめる。
けど、本人は、そういうことに、矛盾を感じないのである。こういう、レベルだ。自分のことについて、自己責任自己責任」と言っている場合は、特に、そういうふうに意識できる事柄について、そう言っているだけだ。
* * *
これから、薬害がはやるだろう。薬害でこまっている人たちが、薬害でこまってない自己責任論者から、責任を追及される。「自分が打つことに同意したのだから、自己責任だ」と言われるようになる。
自己責任論者は、厚労省や政府や医者の責任は、追及しない。
自己責任論者は、やったほうの、責任は追及しないのである。自己責任論者は、こまってないほうの責任は、追及しないのである。自己責任論者は、こまっているほうの責任を追及する。
こういう自己責任論者が増えると、だれが得するのかな?
「こういう自己責任論者が増えると、だれが得するか」ということについて、少しは考えたことがあるか?
考えたことがないなら、考えるべきだ。
* * *
すでにこまっている人に、「おまえの自己責任だ」と追い打ちをかける。そして、「俺は自己責任で生きているモーン」といやみを言う。
責任の所在は、個別に議論しなければならないことなんだよ!
「すべては、やられたほうの責任」ではないんだよ。
「すべて」という言葉を使って、個別の具体的な話に水をさす。個別の具体的な話を考えられないようにしようとする。こいつらの頭のなかでは、「すべて」だから、個別の出来事は「すべて」にあてはまるもなのである。
そこでは、個別の出来事を無視して、「すべてはやられたほうの自己責任だ」という決めつけが成り立っている。そいつの頭のなかでは、個別性を無視して、すべてにおいて、やられたほうの自己責任だということになっているのである。
これで、善をなした。善い行いをしたと思っている。
やられたほうに、「おまえの責任だ」と圧力をかけ、「俺は、自己責任で生きているけど、おまえは自己責任で生きてないダメなやつだ」といやみを言うのである。こいつらがこの世でやっていることはそういうことだ。
* * *
現実の世界というのは、それこそ、すべてが、個別の具体例なんだよ。個別の出来事における責任の所在について考えずに、最初から「やられたほうが悪い」と決まっているのである……。自己責任論者の頭のなかでは、最初から、やられたほうに、全責任があると決まっている。やったほうには、一切合切責任がないのである。これは、責任という言葉を使っているけど、やったほうは、悪くないということだ。やられたほうが悪いということだ。
* * *
「すべて」と言うときは、抽象的な意味で「すべて」なのである。それは、これから起こることも含んでいる。抽象的な意味で「すべて」と言ったら、ほんとうに「すべて」なのである。しかし、そのすべてのなかに含まれてしまう、個別の出来事というのは、唯一無二の個別の出来事なのである。「すべて」というのは、個別の出来事をすべて含んでいるように思えるけど、実際には、「すべて」に含まれる個別の出来事なんてない。ひとつもない。一度、抽象化して、抽象化した「すべて」を考えて、個別の出来事に「すべて」の属性を当てはめて考えているのである。一度、すべてという言葉で抽象化してしまうと、そういう問題が発生する。
* * *
たとえば、ある人のうちに泥棒が入ったとする。泥棒が印鑑を盗んだとする。その場合、自己責任論者は、盗まれた人の責任を追及するのである。盗まれたら、こまるだろう。 自己責任論者は常に、こまっているほうの責任を追及するのである。ある人をAさん、泥棒をBさん、自己責任論者をCさんとする。たとえ、Aさんが戸締りをきちんとしたとしても、もっと厳重な泥棒対策をするべきだったということになってしまうのである。そういう厳重な泥棒対策をしなかったので、Aさんには責任があるということになってしまうのである。単に、責任があるだけではなくて、全責任があるのである。実際に、盗まれたということが発生したら、盗まれたことについて、盗まれた側に、全責任があるということに、してしまう。自己責任論者は、やれたほう、こまっているほうに、すべての責任があるということに、してしまう。そして、もっと厳重な泥棒対策をすれば、泥棒に入られることはなかったという、仮定の話をして、現実のAさんがとった泥棒対策がじゅうぶんでなかったということにしてしまう。そうすると、Aさんにも『非があった』ということになるのである。しかし、現実世界では「完全な泥棒対策」はむずかしい。実際に泥棒に入られたら、入られたほうに非があるということにされてしまう。非がなければ、泥棒であるBさんはAさんの家に入れなかったのであるから、非があるAさんの責任だということになってしまうのである。しかし、現実的には、完全な泥棒対策なんてない。だから、適度な泥棒対策をすれば、完全な泥棒対策をしなかったということで、せめられることはない。ところが、自己責任論者は、空想的な、完全な泥棒対策を想定して、そういうことをしなかったAさんをせめるのである。実際に!やられてしまったら、やられてしまったということで、やられたほうには落ち度があるということになってしまうのである。やられたほうには非があるということになってしまうのである。自動的にそうなる。
自己責任論者であるCさんは、Bさんが泥棒をしたということについて、自分の責任だと感じるべきなのだ。自己責任論者であるCさんは、Aさんが泥棒に入られたということについて、自分の責任だと感じるべきなのだ。どうしてなら、「すべては自己責任」だからだ。「すべては、自分の責任」だからだ。Aさんが完璧な泥棒対策をしなかったのは、Cさんの責任だ。どうしてなら、すべては「自分の責任」「Cさん自身の責任」だからだ。Cさんには、この世で起こったことすべてに、責任がある。「すべては自己責任」なのだからそうなる。Bさんが泥棒をしたのは、Cさんの責任なのである。どうしてなら、Bさんが泥棒をしないようにCさんがしなかった責任があるからだ。「完璧」ということを言うのであればそういうことになる。想像の世界では、いくらだって、「すべきだったこと」を……言ってみれば……作成できる。そうするべきだったのに、そうしなかったから悪いんだ(責任があるんだ)ということを言うことができるのである。無限にそういうことができる。実際に起こったことの反対を考えて、それが起こらないようにしなかったのは「その人の責任だ」ということに、することができる。こんなのは、ない。けど、自己責任論者が、こまっている人にやっていることは、そういうことだ。
毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/
ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。
●ヘビメタ騒音というのは
ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。
あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。
認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。
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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。
死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。
過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。
用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。