いかなる現実の条件も無視するという、条件が成り立っている。
ようするに、無言ではあるけど、『条件なんて関係がない』という考え方が成り立っているのだ。
そうなると、条件がいい人や条件が中ぐらいの人が、条件が悪い人を追い込むことになる。
そして、追い込むことが、もはや、奨励されているのである。
この条件のよさとか悪さというのも、相対的なものなんだよ。自分を中心として、相手の条件がいいとか条件が悪いということが決まる。
上位一〇%と下位一〇%をぬかした部分が八〇%を構成する普通の人たちだ。
もちろん、上位一一%から二〇%までに入る人と、下位一一%から二〇%までに入る人の条件はちがう。けど、おなじだということになっているのである。条件による違いというものを無視することが、前提条件になっているので、おなじだということになる。
「コツコツ努力をすれば、成功する」という言葉は「おなじ条件のもとで、コツコツと努力した人は成功するけど、コツコツと努力しなかった人は、成功しない」という意味を持つ言葉として流通する。
そして、これに、自己責任論が、すいつく。
そうなると、条件が悪い人は、追い込まれることになる。家族がきちがいだということは、条件が悪い人のなかでも、かなり条件が悪いほうに入るのだけど、そんなのは、無視される。
「条件なんて関係なく、コツコツ努力をすれば、成功する」というような思想がはやっていると、ある層……たとえば、きちがい的な家族にたたられている層は……非常においつめられるのである。生きにくくなるのである。
凡人が凡人の首をしめるように、誘導されているのである。こういう思想がはやっているというのは、たぶん、偶然ではなくて必然だ。悪い人たちが、ある目的のために、はやらせておいたのである。
そう考えると、いろいろと、納得がいく。
凡人が凡人の首をしめると言ったけど、これは、ちょっと優位な凡人が、ちょっと劣位な凡人の首をしめるということだ。それが、普通のことになってしまうのである。そういう連鎖が、上のほうから下まで、一貫して成り立っている。なので、特に条件がいいわけではない凡人が、条件の悪い人を、追い込むことが可能になる。
極端に条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」を思想として受け入れているために、社会に文句を言うこともなく、自殺していくのである。
条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」の正しさを信じ込むように誘導されている。条件が悪い人が、『条件の違い』について言及するのは、みっともないことなのである。そういう感じ方も成り立っている。
ようするに、条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」を思想として受け入れているから、自分を殺すしかない状態になってしまうのである。「すべては自己責任」「自分のせい」と思って、死んでいく。
けど、条件のちがいがある。生まれたときの条件のちがいは、特に、大きな条件のちがいだ。生まれたときの条件のちがいが、さまざまな条件のちがいを、時系列的に生み出していくのである。
そして、過去のできごとは、現在に影響をあたえるので、もう、こどものころには「条件のちがい」をはねのけられないような状態になっているのである。条件のちがいをはねのけるには、これまた、努力をするしかないということになっている。
しかし、条件が悪いと、努力そのものができない。
自殺をしてはいけませんということになっているけど、それは、建前だ。社会的な自殺対策も、もちろん、建前だ。実際には、ちょっと優位な凡人を刺客として、ちょっと劣位な凡人のところに、さしむけている。頭のいい人たちが、凡人を洗脳して、優位な凡人を、劣位な凡人のところに派遣している。
ちょっと優位な凡人というのは、たとえば、先輩社員や先輩アルバイトだ。職階がおなじでも、あるいはアルバイトでも、先輩と後輩のちがいがある。先輩は「そこでは」ちょっと優位な人間なのだ。つまり、ちょっと優位な凡人だ。ヒエラルキーというと、頂点や底辺が、注目されがちだけど、自分を中心にした「ヒエラルキー」が成り立っている。
ちょっと優位な凡人が、ちょっと劣位な凡人の首をしめるときに使う思想が、自己責任論と努力論だ。これが、人類のありかたとして普遍的なありかたなのかというと、そうではないと思う。人類はほんとうは、そういうこととは関係なく、しあわせに存在することができると思う。