精神世界の人は、自分の気持ちと世界が連動していると思っているから、自分が明るいことを思えば、世界に明るいことが起こると信じている。この場合は、「自分」対「世界」で自分の心理的な状態が、そのまま、ほんとうの世界に影響をあたえると思っている。
ところが、他人は、自分の気持ちとは関係なく動くので、悪い意志をもったものがいると、悪い意志を実行する。
その場合、自分の気持ちとは、関係なく、悪いことが発生する。
社会において、とても力をもった人が、悪いことをする意志にみちあふれている場合は、やはり、社会的に悪いことが発生するのである。なので、この場合は、「自分」対「世界」という構造が成り立たない。「自分」対「世界」という構造が成り立たないので、「他人」対「世界」というような構造を考えなければならなくなる。
その場合、他人というのは、集合的な他人なのである。「社会意識」とか、「集合的な無意識」とかという言葉で、そういうことを語る場合がある。精神世界の人は、そういうことを、「社会意識」とか、「集合的な無意識」とかという言葉で語る場合がある。
その場合、じつは、社会意識というのは、自分のなかの「社会意識」でしかない。自分の意識(社会意識)なのである。自分の意識のなかにある、社会意識なのである。
ほんとうは、自分が明るい社会や明るい未来を考えれば、それでおしまいなんだよ。自分が明るい社会を考えれば、実際の社会が明るくなるのである。それで、おしまい。
けど、実際には、自分がどれだけ明るい社会を考えても、暗いことが起こる。なので、「社会」という別の要素を持ち込まなければならなくなるのである。「自分」対「世界」だけだったのに、「自分(社会意識)」対「世界」という構造を考えなければならなくなるのである。
それは、いってみれば、じつは「自分が明るいことを考えると、世界が明るくなる」という理論がくずれていることを意味している。
自分が明るいことを考えれば、世界が明るくなるという理論が正しい理論であるならば、自分が明るいことを考えれば、世界は明るくなるので、それで、話が終了する。ところが、ならない……。ならないから、「自分(社会意識)」というものを考えなければならなくなるのである。しかし、明るい思霊主義者は、それに気がつかない。気がついていない。
なぜ、他人に「明るいことを考えましょう」「明るいことを考えると、明るいことが実現されるので、明るいことを考えたほうがいいですよ」と言わなければならないのかというと、すでに、「明るいことを考えると、明るいことが実現される」という理論が、破綻しているから、他人に言わなければならなくなるのである。
その他人というのが、たとえば、自分とおなじ力がある他人として、仮想されているのだけど、集合的な他者なのだ。その集合的な他者というのは、自分のなかにある集合的な他者でしかない。
社会意識とか、集合的無意識とか、集合的他者とかという言葉を使うにしろ、自分のなかの「集合的な他者」が集合的に問題になっているにすぎないのである。