みんな「俺だってつらい思いをしてきた」「私だって、なんとか病にかかった」というようなことを言う。けど、どうなんだろうね? 社会人として活動できている人間が「経験したつらいこと」ってなんなんだよという気がする。社会人として通勤できる労働者(従業員)が経験してきたつらさと、きちがい家族がもたらすつらさ、どっちが、つらさの度合いにおいて強いのか? もう、通勤できなくなって、会社をやめた人が言うのは、いい。けど、社会人として通勤できる労働者(従業員)が経験したつらさや、セミナー講師として活動できる人が経験したつらさは、たぶん、通勤できなくなってしまった人のつらさよりも、軽いつらさだと思う。
神様的な視点で、どっちのほうが「つらさ」の度合いにおいて上だとか下だとかということを、決めることができないのだ。神様的な視点をもっている個人なんていないからだ。
神様しか、神様的な視点をもてない。
なので、すべては、個人の主観ということになる。客観的にどうのこうのと言っても、個人が考える主観的な客観性を持ち出しているにすぎない。そして、社会に参加しているすべての人が、独自の「視点」をもっている。そりゃ、個人の視点は、個人の視点でしかない。そういう部分をどうにかしないと、この話はできないというところがある。
簡単に言っておくと、まず、客観的な指標として、「働いているか」「働いていないか」ということを、重視するべきなのではないか。個人の「弱さ」と「強さ」ということは、別の指標として必要だ。しかし、個人の 「弱さ」と「強さ」ということを一度無視して、すべてを考え直す必要があるのではないかと言っているのである。ようするに、「耐久力」「耐久性」と言えるようなものは、一度、固定して考えてみてはどうかということだ。