きちがい家族にやられると、常識的な人が「敵」になってしまう部分がある。
そりゃ、よくわからないやり方……常識的な人にはよくわからないやり方で、働けないからだになったら、働けないということで、常識的な他人がせめめてくる。常識的な他人にしてみれば、働けないことではないのだ。
常識的な他人は、経験的に、そういうことを、きちがい家族に、長期間にわたって、毎日毎日やられたことがないので、それが、「働けなくなるようなことだ」という認識がない。
常識的な他人は、「たとえそういうことがあったとしても、働けるはずだ」と、ごく常識的にそう思う。ところが、そうじゃないのである。たとえば、きちがいヘビメタ騒音による、はりつめた状態を七年間毎日経験すると、睡眠回路が「誰でも壊れて」一定の時間に起きられなくなる。そうなると、通勤ができなくなる。週に三回でも、通勤するとなったら、むりな話だということになる。そういうからだになる。けど、ほかの人は、経験的に、そうなったことがないので、わからないのである。そして、たとえば、きちがい的な家族が、きちがいてな意地で、それだけの騒音を毎日、長時間鳴らすということが、常識的な人の身の上には、まったくまったくしょうじないので、常識的な人にとっては、想像するだけの問題になる。実際にやられたわけではないので……一倍速で経験したわけではないので……それがそういう問題だということがわからない。そうなる」ということが体でわかっているわけではない。だから、「たとえ、そうされても、そうならないのではないか」と軽く考えてしまうのである。ところが、人間なら、だれでもそうなるものだと、ぼくは思う。健康的な人でもそうなるし、騒音耐性がある人でもそうなる。肝心なのは、「世界で一番きらいな音」だということだ。たとえば、ヘビメタは、ぼくにとっては、世界で一番嫌いな音の集合だけど、ほかの人にとってはそうではない。だから、その「ほかの人」特有の、一番嫌いな音を、あのでかさで毎日、長時間・聞かされるという状態を、経験してもらわなければならない。ところで、やっている人間の態度は問題だ。態度は、感情に影響をあたえる。やっている人間が「やってないつもり」「関係がない人のつもり」でやっていたら、それは、頭にくる。こういうことが、すべて「常識はずれ」なのである。だから、うちで、発生していたことは……きちがいによって発生したことは、「常識的な人」にはわからない。けど、「騒音はよく鳴っているし、騒音経験はあるので」そういう騒音だと、勝手に、常識的な人が考えてしまうのである。だから、ようするに、そういうふうなものだと、きちがい兄貴の騒音について、考えてしまう。なので、ここでも、考え違いがしょうじる。普通の人……常識的な人は、きちがい家族による騒音にいて、ごく普通に、ごく常識的に、考え違いをしてしまのである。まちがった認識をもってしまうのである。なので、やっかいだ。くそ凡人が「そんなのはたいしたことがない」「そんなことで、働けなくなるはずがない」「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と思って、きちがい的なことを言ってくるなので、ごく普通の人も、敵になる。
常識的な人が、ごく普通に「言霊的な解決方法」を口にするけど、それは、実際にやられた人にとっては、「無理な話」なのだ。言霊的な解決方法を口(くち)にする人は、「無理難題」をおしつけているとは、考えない。けど、言霊的な解決方法を口(くち)にする人は、特殊な家族にやられた人に、無理難題をおしつけることになる。どうしてかというと、その、言霊的な解決方法が、カスだからだ。土台無理な話なのである。「生き返ると言えば、生き返る」と言霊主義者が言ったとする。「生き返るといえば、死んだ人だって、生き返る。だから、生き返るといえばいい」と助言しているようなものなのだ。けど、生き返ると言ったって、死んだ人は、生き返らない。土台無理な話だ。で、死人に関しては、そういうことだということが、経験的にわかるけど、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなったということは、経験的にわかってないのである。なので、その方法は、有効だと言い張るのである。けど、こっちにしてみれば、「生き返ると言えば、死んだ人は生き返る」と言われているようなものなのだよ。そのくらい無理な話なんだよ。けど、「無理だ」ということが言霊主義者や常識的な人にはわからない。経験的に、わかってないからわからない。『有効だ』と思ってしまう。「自分」が「到底無理な話」をしているとは、到底思えない。そういうところに、ズレがしょうじるのである。どうしてズレがしょうじるかというと、常識てな人は、きちがい家族による騒音を経験してないからだ。きちがい家族の行為が、「ブラックホール」になってしまうのである。きちがい家族の態度が、「盲点」になってしまうのである。きちがい家族が、ふたりいたら、そりゃ、もっともっと、誤解をうける。たとえば、「親なら、そんな音で鳴っていたらやめさせるはずだ」と常識的な人は思ってしまうからだ。ところが、そうじゃないのである。けど、これも、「そうじゃない」ということを、言葉でちゃんと説明したとしても、常識的な人は、きちがい家(け)で育ったわけではないので、わからないのである。感覚的にわからない。
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深刻さがわかってない。そして、そういう深刻な状態になったのは、ぼくが……きちがいヘビメタが鳴っているにもかかわらず、毎日、学校に通ったからなのだ。
これが、ぼくの睡眠回路を七年かけて、破壊した。平日は毎日ということだけど、休日は、平日よりももっともっと、もっともっと、長い時間、きちがいヘビメタが鳴っていた。ようするに、午前中からなりはじめたのである。
けっきょく、休日は「やすみ」にならないのである。一日中、きちがい家族による、きちがい騒音にさらされ続けた。休日のほうが、さらされている時間が長い。休日は、一日に一三時間(じゅうさんじかん)ぐらい鳴らされた。絶対にやめない。『きちがいだからなのかどうか』わからないけど、絶対にやめない。
ところが、きちがいだから、絶対にやめなかったという認識がないのだ。これがこまる。しかも、でかい音で鳴らしているという認識はつねにないので、まったく関係がない人として、鳴らし続けるのである。どれだけ「やめろ」と言われても、やってない人として、やり続けるのである。
これが、「現実の破壊」だ。
きちがいだからできる。きちがいだから、ごく普通にそうなっている。特に、「こうしよう」と思ってやっていることではないのである。きちがいだから、二四時間中二四時間そういうモードで暮らしていて、うちにいるときは、そういうモードになってしまうのである。
そとにいるときは、うちにいるときとはモードがちがうわけだけど、それも、わざわざ、意識的にモードを切り替えているわけではないので、うちにいるときは、ごく普通にそういうモードになっているのである。
モードという言葉を使ったけど、脳みそが構造的にそうなっているのである。そういう脳みそを搭載して一日に二四時間生きているのである。脳みその物理的な構造が、かわらないのだから、うちでは、ごく自然にそうなる。二四時間中、いついかなる時も、きちがい兄貴がうちにいるときは、きちがい兄貴は、そういうモードになっているのである。
きちがいが、常に、「現実を破壊して」生きている。きちがいが、きちがい的なことを、きちがい的な意地でやるとき、きちがいは、それをまったく、認識してないのである。そういうことをやっていると思ってないのである。きちがい的な意地で、自分の無意識を実行しているのに、自分の意識は、実行していると認識してない状態なのである。
なので、常に「関係がない人」としてやり続ける。「やめろ」と言われたら、脂汗をかいて、からだを真っ赤にして、ものすごい形相でやり続けるけど、「やったつもりはな常にない」という状態になっている。
だから、自分がやったこととして感じられないというところがある。
「やった」と言われたら、「やった」ということを認めるということが、自分にとって不愉快なことなので、そういうモード?になって、絶対に認めないのである。やり方がおなじ。何回も、ネスト構造になっているということを言っているけど、それは、こういうことだ。やりたいことをやっているとき「やめろ」と言われることは不愉快なことなんだよ。だから、無意識のレベルで相手が言っていることを無視して、がぜんやる。やりきる。けど、相手が言っていることを無視したつもりはないのである。そりゃ、そんな認識、しょうじるはずがない。だから、これも、相手がやめろと言ってるのに、自分が無視してやりきったということには、なってないのである。そういう認識がうまれないのだから、そういう記憶が残るはずがない。だから、いつも、いつも、そうやって、無視して鳴らしている……やりきるのに……本人はそういうことをしたつもりが、まったくないということになる。そういうレベルの無視だ。こんなのは、きちがいじゃないとできない。だから、そういうきちがいが、家族のなかにいる人じゃないと、きちがいにそういうことやられたということがないということになる。そうなれば、「やめてといわないのが悪いんだ」とか「すべては自己責任」という話になってしまう。