まあ、似ているとは書いたけど、別にその人たちが、ぼくに対して、親父がやったことや、兄貴がやったようなことを、やったわけではない。
それはわかっている。
似ているとは書いたけど、その人たち……言霊主義者や精神世界の人は……ほかの人に対しても、親父がぼくにやったことや、兄貴がぼくにやったことを、やってない!
その人たちの近くには、ようするに……うちの親父のような人や、うちの兄貴のような人が……いない。すくなくても、家族として一緒に住んだことがない。
なので、「わかってない」。
わかってないところがあるんだよね。
たしかに、たしかに、言霊主義者や精神世界の人が、きちがい親父がぼくにやったことや、きちがい兄貴がぼくにやったことを、ほかの人たちに対して、やったとは思えない。そういうレベルではちがう。
だって、そうだろ。
きちがい親父やきちがい兄貴は、特殊な人なのだから。きちがいのなかでも、特殊な気ちがいなのだから……。
で、ともかく、ほかの人……世間の人……普通の人……は、無意識に問題があるようなきちがいと一緒すんだことがないので、無意識に問題があるようなきちがいがどういう態度で、どういうことをやるのかぜんぜんわかってないのだ。
やったあとの、きちがい側の感覚というのも、わからないと思う。わかってないと思う。そりゃ、いっしょに家族として暮らしてみなければ、わからない。わからない部分がある。どうしたって、わかるには、いっしょに住む必要がある。
いっしょに住むということが、どういうことなのか、わかってないかもしれないけど……あるいは、所与のものとして軽視しているかもしれないけど……ともかく、そういう無意識に問題がある人と、いっしょに住むということは、とてつもなく、たいへんなことなのだ。
ここで、すべての常識が「ひんまがって」しまう。
けど、世間の人……普通の人……は、言ってみれば、常識のなかで住んでいる人なのである。なので、ぼくがかかえた問題の『本質』がわかってない。これ、わかってないのだ。
はじめから、終わりまで、まったくまったく、わかってない。
だから、わかってないという意味で、気楽なことが言えるわけ。わかってないという意味で、勘違いしたことを、勘違いしてないつもりで、言えるわけ。
無意識に問題があるようなきちがい家族が、やったことの影響をというのを、無視してしまう。わかったつもりでもわかってないのだ。
だから、普通の人たちは『影響』について、とてつもなく、表面的な理解しかしない。
それは、ブラック社長が、名前だけ店長のつかれについて、表面的な理解しかしないのとおなじだ。ブラック社長は、名前だけ店長の話を聴いて、「ようするに、疲れているんだろ」というところまで理解する。
けど、どういうふうにつかれているのかはぜんぜん理解してないのである。
そして、「できると言えばできる」とか「つかれたと言うからつかれるんだ」という言霊主義者的な反応をする。
名前だけ店長が実際に経験しているつかれと、ブラック社長が、名前だけ店長の話を聴いて、ブラック社長の頭のなかにつくりあげた「名前だけ店長が経験しているつかれ」は、一致してない。
完全に一致してない。
けど、どれだけ、名前だけ店長が、ブラック社長に自分のつかれについて説明しても、ブラック社長はそういうレベルの!!理解しかないだろう。そして、ブラック社長は、『完全に理解した』と思うのである。
ブラック社長は、『名前だけ店長が経験しているつかれについて、完全に理解した』と思うのである。これは、最初に言われたときの理解度と、ものすごく説明されたときの理解度が、おなじだということを意味している。
意味していると言ったって、ぼくがそういうふうに言っているだけだけどさぁ……。
ようするに、名前だけ店長が、どれだけ詳細に、自分のつかれについて説明したとしても、ブラック社長は、「ようするに、つかれているんだろ」という最初の理解とおなじレベルの理解しかしなのである。
なので、どれだけ詳細に説明をうけたとしても、「できると言えばできる」とか「つかれたと言うからつかれるんだ」という「まとはずれな」反応しかしないのである。
だから、名前だけ店長は、失望するんだよ。あるいは、絶望するかもしれない。
この一連のやりとりで、けっきょく、絶望してしまうほうは、名前だけ店長だ。ブラック社長は、ぴんぴんしている。ぜんぜんかわらずに、ぴんぴんしている。理解度もかわらずに、ぴんぴんしている。
けど、名前だけ店長は、日常の業務につかれはて、ブラック社長に自分の状態を説明しても、むだだったということに失望してしまうのである。現実の社会というのは、そういうところがある。