一度、人間のことについて、経済人のような理想人としての人間を考えて、「それ以外」のすべての条件を捨象して、考えたとする。
この場合、それ以外のすべての条件を捨象して考えたということは、絶対に意識しておかなければならないんだよ。
ところが、ぼくの観察の範囲で言うと、ほとんどの人が、それ以外のすべての条件を捨象したということを、無視してしまう。
だから、現実の世界でも、その法則が成り立つと思ってしまう。
「それ以外」と書いたけど、「それ」というのは、「X」のことだ。「Xをすれば、Yになる」と言う場合、「X」だけが条件になる。Xをするか、Xをしないかの二値だ。それ以外にないのである。
つまり、Xと言う条件だけが、Yになるかどうかを決定しているというとになる。「Xをすれば、運があがって、Yになる」と言う場合もおなじである。Xをするか、Xをしないかの二値だ。それ以外にないのである。
「理想的な人間」について「空想空間」で考えるのである。
そして、そこで「ひらめいた?」ことが、絶対に正しいと思ってしまう。一直線に正しいと思ってしまう。
そうすると、「現実世界でもそうだ」ということになってしまうのである。
ところが、現実世界には、空想したときに無視された、さまざまな条件が成り立っているのである。
場面場面の条件を考えると、無数の条件が成り立っていると言えるのである。
無数の条件のうち、意識にあがるような有力な!条件があるとする。その有力な条件ですら、「空想空間」では無視していたのだ。
そして、主体としての本人は、他人のすべての条件を無視できる立場にあるのである。
本人は、経験的に本人の条件について、意識的、無意識的に考えるのである。
実際の現実について考えるときは、じつは、本人は、本人の条件について、意識的、無意識的に考えているのである。
どうしてかというと、本人には、認知とメタ認知が成り立っているからだ。
本人のことに関しては、認知とメタ認知が成り立っていて、記憶もある状態で暮らしている。記憶に関しては、いろいろと取捨選択されている。
注意が向く記憶、注意が向かなかった記憶、記憶に残ってすぐに思い出せる記憶、すぐには思い出せない記憶、まったく思い出せない記憶……。記憶があると言っても、すべての事柄(出来事)について記憶があるわけではない。
しかし、本人が、経験したことについては、認知とメタ認知が成り立っていて、時間の範囲があるし、ぬけがあるかもしれないけど、いちおう、記憶が成り立っている。
他人ことに関しては、もともと、認知とメタ認知が成り立っていない。
他人自体に対して、本人の側に、認知とメタ認知が成り立っている場合がある。
けど、これは、他人を対象としてとらえた場合の、本人側の認知やメタ認知なのであるから、他人が(そのままもっている)認知やメタ認知ではない。他人になれないのだから、他人の認知や、他人のメタ認知は、ない。
だから、他人の認知や、他人のメタ認知は、最初から、ないのである。
無視しようとしなくても、最初からない。
そして、「無視する」という言い方をするのであれば、他人の認知や他人値のメタ認知は、無視しているのである。
だから、「自分だって、苦労した」と言っているときに、他人の認知や他人のメタ認知は成り立っていない。自分の側の認知やメタ認知しか成り立っていないのである。
そして、「自分だって、苦労した」という言い方には、どうしても、比較が含まれてしまう。
比較して言っているのである。
しかし、他人の認知や他人のメタ認知がそもそもないのだから、自分の側が考えた、対象としての他人の認知や他人のメタ認知だということになる。
もちろん、「自分の側が考えた、対象としての他人の認知や他人のメタ認知」と「他人の認知や他人のメタ認知」とは、まったくちがったものなのである。
ともかく、空想世界で、理想的な人間というものを考えて、XをすればYになるということを考えた場合、絶対に、「X以外」の「すべての条件」を捨象して考えたということは、忘れてはならないのである。
ところが、最初から、意識していない。
X以外の、すべての条件を捨象してしまうことが、デフォルトなのだ。
こんなの、ない。