ヘビメタ騒音にやられた俺は、他の人のことがぜんぜん参考にならない。他の人の意見、他の人の生き方……全部、ぜんぜん、参考にならない。それにしても、この国の無職に対する偏見はすごいものがある。これは、ぼくの被害者意識とか、社会人に対する?逆偏見ではないから。けど、『無職の現象学』でも書いたけど、じつは、無職かどうかよりも『無職性』のほうが重要なのだ。判断基準として、重要だ。判断基準は、無職かどうかではなくて、無職性が高いかどうかだ。
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きちがいヘビメタにやられた小学生時代、中学生時代、高校生時代をすごしたことがない人は、ヘビメタ騒音のすごさがわかってない。俺以外の人間がそういう人間なのだから俺が説得して、ヘビメタ騒音のすごさを説明しても、けっきょくは、わからないままだろう。だって、ほんとうに「毎日毎日」「毎時間毎時間」経験してなければ、わからないことなのだから……。どれだけ、ヘビメタ騒音が、生活や人生そのものに悪影響を与えるかわからない。「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」とか考えるやつは、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間のつらさがわからない。こんなもの、俺にとっては、「妄想にとりつかれている人」とたいしてかわりがない。まちがったことを、信じている。そして、その信仰が生活の一部になっている。「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」と思ってしまう人は、「鳴り終わったら関係がない騒音」しか、経験してない。どれだけ、睡眠時間を圧迫するかわかってない。どれだけ睡眠の質をさげるかわかってない。どれだけ、人間関係に影響があるかわかってない。俺にしてみればこういうことを言うやつは、「なにもわかってないばか野郎」だ。しかし、そういう「ばか野郎」のほうが、圧倒的多数。俺の状況があまりにも異常なので、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の態度や性格がわからない。きちがい兄貴の「認知」がわからない。きちがいおやじの態度や性格がわからない。きちがいおやじの「認知」がわからない。「父親」や「兄貴」ということ関して、「そんな人いない」と考える人は、騒音の影響がわからない人と同じ間違いをおかすことになる。しかも、間違えたって、なんの、罰則もない。なんの悪影響もない。まさに、『いったものがち』『おもったものがち』……そういう世界だ。絶対少数と、絶対多数。……どれだけの偏見にさらされるか。偏見を持っているほうは、それが偏見だと気づくこともない。そういう世界だ。俺以外の人間はそういう人間……。こんな社会で、「ここちよく」生きていけるわけがないだろ。
ある、障害児教育の専門家が「もし、それがほんとうだとしたら、俺があつかっている子供よりもひどいな」と思ったとする。「それ」というのは、兄貴の性格や兄貴が普通にしてきたやおやじの性格やおやじが普通にしてきたことだ。ようするに、うちのおやじと兄貴は「もしそれがほんとうなら」障害児認定された子供よりもひどいということだ。「それがほんとうなら」というのは、「エイリさんが(兄や父について)言っていることがほんとうなら」ということだ。こういうことを思う専門家は、基本的に、ぼくのことを疑っている。ほんとうのことだと思ってない。そして、そこに、「騒音の影響に対する無理解さが」くわわる。そいつは障害児教育の専門家であると同時に普通の日本人なので、日本労働教徒の教えが、からだにしみついている。すべてのことを考えるとき、「日本労働教徒」の教えが体の中をかけめぐる。「日本労働教徒」の教えが、人に対する判断の基準になる。「日本労働教徒」の教えを守ってない他者は、異教徒であり、迫害してもいい存在なのである。どれだけ、『人権人権』と叫んでいても、普通の日本人であれば、無職者の人権はないと考える。そういうふうに行動する。そういうふうに行動しても、悪いことをしたとは思えない。偏見に基づく判断をして、人を見くだし、無理解な発言をしたとしても、まったく問題はないのだ。むしろ、「無職者でいるほうが悪い」と思うだろう。
ヘビメタ騒音の影響が甚大なのである。同じことをされれば、普通に働けない体になるのに、それがわからない。俺がヘビメタ騒音のことについて説明しても「そんなのは関係がない」と思えてしまう。