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2020年10月30日金曜日

他の人のことがぜんぜん参考にならない



ヘビメタ騒音にやられた俺は、他の人のことがぜんぜん参考にならない。他の人の意見、他の人の生き方……全部、ぜんぜん、参考にならない。それにしても、この国の無職に対する偏見はすごいものがある。これは、ぼくの被害者意識とか、社会人に対する?逆偏見ではないから。けど、『無職の現象学』でも書いたけど、じつは、無職かどうかよりも『無職性』のほうが重要なのだ。判断基準として、重要だ。判断基準は、無職かどうかではなくて、無職性が高いかどうかだ。 

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きちがいヘビメタにやられた小学生時代、中学生時代、高校生時代をすごしたことがない人は、ヘビメタ騒音のすごさがわかってない。俺以外の人間がそういう人間なのだから俺が説得して、ヘビメタ騒音のすごさを説明しても、けっきょくは、わからないままだろう。だって、ほんとうに「毎日毎日」「毎時間毎時間」経験してなければ、わからないことなのだから……。どれだけ、ヘビメタ騒音が、生活や人生そのものに悪影響を与えるかわからない。「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」とか考えるやつは、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間のつらさがわからない。こんなもの、俺にとっては、「妄想にとりつかれている人」とたいしてかわりがない。まちがったことを、信じている。そして、その信仰が生活の一部になっている。「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」と思ってしまう人は、「鳴り終わったら関係がない騒音」しか、経験してない。どれだけ、睡眠時間を圧迫するかわかってない。どれだけ睡眠の質をさげるかわかってない。どれだけ、人間関係に影響があるかわかってない。俺にしてみればこういうことを言うやつは、「なにもわかってないばか野郎」だ。しかし、そういう「ばか野郎」のほうが、圧倒的多数。俺の状況があまりにも異常なので、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の態度や性格がわからない。きちがい兄貴の「認知」がわからない。きちがいおやじの態度や性格がわからない。きちがいおやじの「認知」がわからない。「父親」や「兄貴」ということ関して、「そんな人いない」と考える人は、騒音の影響がわからない人と同じ間違いをおかすことになる。しかも、間違えたって、なんの、罰則もない。なんの悪影響もない。まさに、『いったものがち』『おもったものがち』……そういう世界だ。絶対少数と、絶対多数。……どれだけの偏見にさらされるか。偏見を持っているほうは、それが偏見だと気づくこともない。そういう世界だ。俺以外の人間はそういう人間……。こんな社会で、「ここちよく」生きていけるわけがないだろ。


ある、障害児教育の専門家が「もし、それがほんとうだとしたら、俺があつかっている子供よりもひどいな」と思ったとする。「それ」というのは、兄貴の性格や兄貴が普通にしてきたやおやじの性格やおやじが普通にしてきたことだ。ようするに、うちのおやじと兄貴は「もしそれがほんとうなら」障害児認定された子供よりもひどいということだ。「それがほんとうなら」というのは、「エイリさんが(兄や父について)言っていることがほんとうなら」ということだ。こういうことを思う専門家は、基本的に、ぼくのことを疑っている。ほんとうのことだと思ってない。そして、そこに、「騒音の影響に対する無理解さが」くわわる。そいつは障害児教育の専門家であると同時に普通の日本人なので、日本労働教徒の教えが、からだにしみついている。すべてのことを考えるとき、「日本労働教徒」の教えが体の中をかけめぐる。「日本労働教徒」の教えが、人に対する判断の基準になる。「日本労働教徒」の教えを守ってない他者は、異教徒であり、迫害してもいい存在なのである。どれだけ、『人権人権』と叫んでいても、普通の日本人であれば、無職者の人権はないと考える。そういうふうに行動する。そういうふうに行動しても、悪いことをしたとは思えない。偏見に基づく判断をして、人を見くだし、無理解な発言をしたとしても、まったく問題はないのだ。むしろ、「無職者でいるほうが悪い」と思うだろう。



ヘビメタ騒音の影響が甚大なのである。同じことをされれば、普通に働けない体になるのに、それがわからない。俺がヘビメタ騒音のことについて説明しても「そんなのは関係がない」と思えてしまう。

2020年10月29日木曜日

みんな、自由貿易について誤解しているんだよね


今回の新型肺炎のことなんだが……
中国が責任なんてとるわけないでしょ。
トランプが中国に責任をとらせるとか言ってたけど、むりむり。
けど、あれ、オバマ政権のとき、オバマが中国に研究所と人材をあげたんだよね。アメリカの金で、中国にウィルス(生物科学)研究所をつくってあげた。研究者も中国にうつった。だから、アメリカが持ち込んだ」という中国の言い分も、一理ある。だから、そういうことをしちゃいけないんだよ。中国という国に……。日本も、相当に技術供与してしまったけど、それはまずいことなんだよ。さらに、中国に進出?した日本企業の工場もひどいことになっている。何度も言うけど、自由貿易じゃダメなんだよ。俺が言ったでしょ。「付加価値じゃ勝負にならない。「工場製品をつくっている国が発展する」と。その通りになったでしょ。堺屋太一より、ぼくのほうが正しかったでしょ。あるいは、経済学者よりぼくのほうが正しかったでしょ。みんな、自由貿易について誤解しているんだよね。比較優位に関して誤解をしている。前提条件を無視している。前提条件は無視しちゃだめなのに……。
 

興味のある人は、『無職の現象学』を読んでね。

2020年1月3日金曜日

「無職の意見は、すべてまちがっている」「無職は、そもそも意見を言う資格自体がない」


「日本の場合、働けるように見える人が働かない場合、その人が言っていることは、ほとんどすべて否定される」ということを書いたのだけど、もちろん、これは、ぼくが見てきた範囲では、ということだ。私の知るかぎりでは、ということだ。

「ほとんどすべて」と書いたけど、「すべて」と書いたほうが実態には近い。「無職の意見は、すべてまちがっている」「無職は、そもそも意見を言う資格自体がない」という考えを持っている人が多い。無職がなにがしかのことを言ったら、それは、まちがっているのである。なぜなら、その人が無職だからである。

しかし、無職性の低い無職の場合は、そのようには(他の人から)考えられない。無職性の低い無職というのは、定年退職者、専業主婦、学生だ。こういう属性を持っている無職は、無職でも無職あつかいされない。これは、きわめて重要なことなのだけど、「無職問題」を考えているときは、重視されない。無視される。

「無職の意見は、すべてまちがっている」……(1)
「無職は、そもそも意見を言う資格自体がない」……(2)

このように思っている人が、考え方を変えるということはない。なので、相手の人は、無職から脱出しないと、この人たちを説得することはできない。かりに、AさんがBさんから見て働ける人であったとしても、Aさんが働けない人の場合、Aさんは、(いま現在無職であるから)Bさんを説得できないということになる。

Aさんがかりに「自分は働けないのだ」ということを言ったとしても、Bさんは、現在無職であるAさんが言うことは、すべてまちがってると仮定してしまうので、納得しないのである。だから、Aさんが、「自分は働けないのだ」ということをBさんに説得して納得してもらうためには、働かなければならないということになってしまうのである。

ある属性を持っているものが言うことはすべてまちがっているという信念を持っている人は、けっこう、存在するのではないかと思う。しかし、それが、共同幻想であった場合は、もちろん、そういうひとの信念が正しいように思われてしまうのである。

「女の意見は、すべてまちがっている」……(1)
「女は、そもそも意見を言う資格自体がない」……(2)
という信念を持っている人は、現在は少ないと思うけど、むかしは多数いたと思われる。

2019年11月4日月曜日

中高年引きこもり本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思わせる記事ばかり



なんか、中高年の引きこもりが働かないので、まわりの人(おもに家族)が迷惑を被っているというような話しが多い。けど、これは、ほんとうにそうなのかな? 

家族が原因で、働けなくなった人(中高年引きこもり)が多数いると思う。けど、記事を書く場合は、どうしても、家族を『悪者』にできない。そりゃ、そうだろう。『心配して』『助言をしている』家族なのだから、悪者にはできない。しかし、ぼくの感じでと言うとだいたい四割ぐらいが、家族のほうにむしろ原因があると思う。

どうして、本人が『甘えて』働かない……というようなストーリーばかり出てくるのか? 家族が心配して『働け』と言うけど、ちょっとした障害?で働こうとしない。

ちょっとした障害?というのは、たとえば、強迫性障害や社交不安性障害だ。場面緘黙症なども、ちょっとした障害のうちに含めていいと思う。これらの障害?は、ちょっと本人ががんばればどうにかなりそうな障害?だと、一般の人は思っているのである。

だから、親が甘やかしているというような判断をすることになる。もちろん、甘えているのは、中高年の引きこもりだ。

こういうイメージができあがるようにできている……記事全体が。こういう話ししか出てこない。けど、家族がむしろ原因になっている場合があると思う。

本人は、ようするにサイコパス家族の『被害者』だ。数十年にわたって、サイコパス家族にやられて、働けなくなっている中高年の引きこもりだっているはずだ。『心配している』となると援助しているような感じになるけど、むしろ、サイコパス家族(本人たち)の問題が、その人(引きこもりの中高年者)にあらわれている場合があると思う。

ようするに、サイコパス家族が足を引っぱりきって、働けなくしている場合があると思う。サイコパス家族が長い年月をかけて、(子供を)働けないようにしたのである。だいたい、三割だと思うなぁ。

これは、『甘やかし』ではなくて、虐待なのである。
何十年も毎日続く虐待だ。

もっとも、「子供」が強迫性障害や社交不安性障害や場面緘黙症なら、家族が原因だとは言わない。けど、そういう場合もある。そういう場合もあるということを事前に排除してはいけないということを言いたい。
たとえば、強迫性障害だけど、これは、どちらかというと脳のソフトウエアの問題なのである。

脳のハードウエアには問題はないが(注)、出来事によって症状が形成されてしまう場合がある。はっきり言いたいのは、子供が強迫性障害者なら、親に問題があるとは言わないけど、子供が神経症者である場合、親に問題がある場合があるとは言えるということだ。

『親が原因』ということを言うと、一〇〇%、親が原因だと思ってしまう人がいるのだけど、それは、まちがっている。場合分けをしなければならない。なんでこれがわからないのか? すべての場合において親が原因だとは言ってないのだ。

そういう場合がありえるというとを言いたい。部分なんだよ。全体じゃなくて。逆に、子供が強迫性障害者である場合、親が原因でないと言えるかどうかなんだよ。子供が強迫性障害者であった場合、親が原因ではないとは言えない。これがわかるかな? これ、ほんとうに、まちがった推論をすると人たちが多い。

ようするに、親が原因で(親の行為が原因で)子供が強迫性障害になることある。なので、中高年の引きこもりが強迫性障害で引きこもっている場合、親の行為が原因で引きこもりなっている場合がある。親の行為とただ単に書いたけど、親の『過去の行為』だ。『出来事』と書いたでしょ。

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(注)ちょっとした障害だと考えているのは私ではなくて一般人だ。その人にとってちょとした障害だとは、私は考えていないし、考えられない。

中高年引きこもりのことを取り上げた記事では、中高年引きこもりのことは、直接!!悪くは言ってないけど、ちょっとした障害で働こうとしない(だらしがない人だ)(悪い人)というような印象を与えてしまうのである。

ようするに、本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思えるのだ。悪というのは言いすぎだと思うかもしれないが、ちょっとした理由で働かないことが悪なのであれば、悪だということになる。

本人が迷惑をかける人で、家族が迷惑を被っている人だという構図が頭の中にできあがる。(記事を読んでいる人の頭の中にできあがる)。

けど、ほんとうは、家族が迷惑をかけた人で、本人が迷惑をこうむっている人であるケースがあるのではないかということだ。私がこの投稿で言いたいことはそういうこと……だ。

たぶん、世の中の九割は、本人(悪)・家族(被害者)というケースが一〇〇%だと思って、そういう記事を読んでいるのだろうなと思う。本人(被害者)家族(悪)というケースがあるということに注意を払って(そういった記事を読む人は)少ないのではないかと思う。そういった記事というのは、仕事をしない中高年の引きこもりに関する記事のことだ。
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2019年9月19日木曜日

援助をするべきだと考えるなら、Aさんは働けない人だという前提で、話をすすめるしかない


「そのうち働くんでしょ」という紐付きの援助を求めなかった人の気持ちがわかる。事実上働けない人が、他の人からは「働ける人だ」と思われている場合であって、なおかつその人(事実上働けない人)がまじめな人である場合、どうしたって、援助は受けられないという気持ちになる。どうしてかというと、「働けない」からだ。「働かない」のではなくて、「働けない」からだ。その人、その人というとわかりにくくなるので、事実上働けない人をAさんということにしておこう。

問題なのは、Aさんが主観的に働けないと思っているだけだということを、Aさんが否定できないということだ。そりゃ、医者がAさんは働けませんと書けば、それで、行政的にはおさまるけど、Aさんの障害について、医者が働けないという太鼓判を押さなかった場合の話をしているのだから、Aさんが主観的に働けないと「思ってるだけなのか」Aさんが働けないのかは区別がつかない。

たとえば、しばらくの援助であれ、やがては働く必要があるという条件付きの援助なのであれば、働けない(という確信がある)Aさんは、そういう援助を受けるわけにはいかないということになる。

けっきょく、「はたらかざるものくうべからず」という文言に縛られて、死んでいくということになる。

まあ、ふまじめな人であれば、とりあえず、援助を受けて、そのあと、働くそぶりは見せるけど、働かないようにするのだろうと思う。(実際に働けない人なのであれば、このようなことをすることは、悪いことではない。)

けど、そういうことをしたくないという人は、やはり、紐付きの援助は受けられないので、援助を受けずに死ぬということになる。(飢え死に)。まあ、一種の「殉教」みたいなものだな。世間では「働かざる者食うべからず」というおそろしい戒律?が成り立っているのだから!

まあ、戒律じゃないにしろ共同幻想ではあるよね。

だから、助けを求めなかったのだと思う。実際に飢え死にするほうを選んだ人は、援助を求めなかったのだと思う。(どうして、援助を求めてくれなかったのか?)という疑問を持っている人がいたので、それに対する答え。

もうひとつの答えは、「あおりがある」ということだ。「働かざる者食うべからず」という共同幻想が成り立っている社会で、働かないで生きていくというのは、批判を受ける生き方なのである。実際には、Aさんのなかでは、働かないのではなくて、働けないのだけど、Aさん以外の他の人がAさんは働けると見なしているのだから、Aさん以外の他の人は、必然的に、Aさんをせめるのである。

せめてあたりまえだ。

そうなると、Aさんは、自分以外の人の前に出ると、いつも、「なぜ働かないのか」という質問を受けることになる。Aさんは「働かないのではなくて、働けない」のだけど、それは、Aさんのなかの話しなので、他の人はAさんが働けると思っている以上、Aさんが働けるという前提で、質問をすることになる。あるいは、ものを言うことになる。さらにあるいは、説教をすることになる。

しかし、そのような説教をされても、AさんはAさんのなかでは働けないので、無理なのだ。働けないので働けないと答えるしかないということになる。

しかし、世間の人は、Aさんが働けないということを認めていないのだから、そういう答えでは納得しない。だから、質問と説教を繰り返すことになる。

これは、できないことを求められているので、Aさんの主観的な感覚で言えば、「あおられている」のとおなじだ。世間の前に出るということは、尋問されるということなのである。(働けないということは)自分のなかでは自明なことなのだけど……。

そして、「働かざる者食うべからず」ということが、特殊な個人の特殊な幻想ではなくて、共同幻想なので、Aさんをせめる個人を、おなじ共同幻想を持った社会の人たちが支持するということになる。ようするに、Aさんのまわりは、みんな、Aさんの『敵』なのである。

だから、Aさんとしては、援助を求めるわけにはいかなかったのだろう。

だいたい、生活保護だって、一時的に助けるものだということになっている。働くまで、一時的に助けるものなのであるから、働けないAさんは、受けるべきではないのである。まじめに考えれば……の話しだ。

ともかく、どうして働かないのだ?と質問するほうは、ほんとうはAさんがなにを答えても、「働かないかぎり」納得しない。Aさんが働けると思っている個人は、Aさんが働かないかぎり、納得しないのである。ともかく、Aさんは、『働けない証明書』を手に入れなければならないのである。

まあ、『働けない証明書』をAさんがもらえば、たいていの人は、納得して、追及の手を休めるだろう。けど、『働けない証明書』をAさんが持ってないかぎり、追及の手を休めるということがない。Aさんがその追及の手からのがれるには、一切合切、人前に出ないということが必要だ。

もちろん、世間話を振ってきたら、世間話にはつきあうけど、『援助にかかわること』を振ってきたら、その話には『のらない』ということが必要になる。

実際に、『援助を受けたほうがいい』ということをAさんに話す人は、Aさんが援助を受けたあと、働かなくても、追及をするということはないだろう。役割分担がちがうからだ。『働いてください』と言ってくるのは、また別の人だからだ。

いずれにせよ、紐付きの援助を受けるつもりがないのだから、最初から関わり合いを持たないようにするというのが、Aさんの考え方なのだろう。この考え方の背後には、もちろん、『働かざる者食うべからず』という考え方がある。


もし、実際にAさんを助けるとするならば、Aさんは働けない人だという前提で、話をすすめるしかないのである。そういう前提で、援助を申し出たのであれば?援助を受けたかもしれない。

まあ、『働かざる者食うべからず』という共同幻想を持っている人は、そういう前提で援助をすることには、反対するだろう。

『働かざる者食うべからず』という共同幻想を持っている人でも、『障害者は働かなくてもいい』『主婦は働かなくてもいい』『学生は働かなくてもいい』『定年退職者は働かなくてもいい』というような例外の補足規定?のようなものを持っているので、(Aさんのようなものをふくめるかどうかについては)例外の範囲のちがいでしかないということになる。医者に『障害者』として認定された人は、障害者なので働かなくても食べていいと考える人が、『働かざる者食うべからず』と考えている人のなかにもいる。

けど、その人から見てAさんが働ける人なのであれば、当然、Aさんは例外にはあてはまらず、「サボっているだけなのだから、食わずに死ね」という考え方をAさんに押しつけることになるだろう。

まあ、それがあおりで、そうなることがわかっているからこそ、Aさんは、援助をことわって、飢え死にしたのだろう。いちおう、共同幻想と一致しているので「サボっているだけなのだから、食わずに死ね」という考え方は、ひどいことには思えないと思うけど、ひどい考え方だと、ぼくは思うね。Aさんは『サボっているわけ』ではないのだから……。ただ単に『働けない』だけだ。

基本的には『働かなくても食っていける社会』をつくったほうがいいと思う。技術的にはそういうものはつくれる。富の偏在と分配のしくみがうまくなりたってないだけだ。いまの資本主義経済社会だと、『働かざる者食うべからず』というおどしがまず必要になる。これは、おどしてあると同時に『現実』でもあるので、抗しがたい。

けど、これは、いまの特殊な社会が生み出した、特殊な信念であるとも言える。まあ、みんなが信じていれば、共同幻想なのだから、それなりの拘束力はある。

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生活することと、働くことのあいだには距離がある。生活することはできるけど、働くことができない人は、いる。ただ、その人が運良く?『自分が働けない』ということを証明できるとはかぎらない。医者といたって、いろいろいるからね。

2017年5月20日土曜日

「ダメ人間」カテゴリに登録している人が「ダメ人間」と言われて怒るわけ 考察1

そもそも、ダメ人間という言葉が嫌いなので、あんまり書きたくないのだけどいちおう、書いておくか。最初に断ったとおり、ぼくは、ダメ人間という言葉が嫌いだし、他の人を「ダメ人間」と言う気持ちにはなれない。

ブログ村のカテゴリーにはダメ人間というカテゴリーがある。で、当然登録している人たちもたくさんいる。で、登録している人たちは、たぶん、「ダメ人間」という言葉によいイメージを持っていると思う。ここらへんは、本人じゃないからわからないのだけど、悪いイメージしか持ってないなら、登録しないんじゃないかと思う。

「ダメ人間」という言葉に対するイメージは人それぞれだ。たぶん、ダメ人間カテゴリーに登録している人たちは、「愛すべきダメ人間」「愛嬌のあるダメ人間」というようなダメ人間をイメージしているのではないだろうか。いっぽう、「ダメ人間」という言葉に対して、「愛すべきダメ人間」「愛嬌があるダメ人間」というようなイメージを、持ってない人たちもいる。

愛すべきダメ人間の場合は、ダメと言われる要素を持っているのだけど、他のところでよい部分がたくさんあるから、ダメな部分が対照的な魅力としてうつるのではないだろうか。

いっぽう、普通の人が持っているダメ人間に対するイメージは、「ガチのダメ人間」「真性ダメ人間」のイメージなのではないだろうか。これは言ってみれば、「悪いダメ人間」で、よいイメージが入ってない。

だから、登録している人は「ダメ人間」という言葉によいイメージを持っていて、ダメ人間カテゴリーに登録されたブログを読む人はダメ人間という言葉に対してよいイメージを持ってない場合があるのではないだろうか。

そのような場合、ダメ人間によいイメージを持って、ダメ人間カテゴリに登録した人に対して、ダメ人間に対してよくないイメージを持っている人が「本当にダメ人間ですね」というようなコメントをすると、ダメ人間によいイメージを持ってダメ人間カテゴリに登録した人が、傷つき怒るのではないのではないかと思う。


「本当にダメだな」「本当にだめ人間だな」と愛情がない状態で言われた場合、自分が腹を立てるかどうかを考えてから、だめ人間を標榜したほうがいいんじゃないかと思う。



2015年12月22日火曜日

一日一個法

最近、自分で一日一個法というのを考えて実行している。一日に一個、何かをやればいいという方法だ。一日にゼロ個でもいい。一週間に二日ぐらいゼロ個の時があってもいい。いわば、週休二日制だ。

たとえば、「病院に行った」ら、一個タスクを完了したことになるで、今日も一日、一個すすめたと思うようにする。病院に行くのはけっこう大きなイベントだけど、そうではなくて、たとえば、「買い物に行った」というのも、数えるべきタスクとなる。

それどころか、「通販の注文をした」とか「通販の受け取りをした」ということも、数えるべきタスクとなる。それだと、今度はけっこう数えるのが大変になると思うかもしれない。けど、一日一個法では、細かく、数えない。

だいたい、なにを数えるべきタスクと感じるかというのも、その日の状態によって違う。だから、人によって、状態によって、なにがタスクなのか、違ってくる。何にもしなかった日は、たとえば、ご飯を作ったというのものを、数えるタスクにくわえてもいい。「今日は、自分でご飯を作ったから、いい。自分でご飯を作ったから、進歩した」……「ご飯を作ったので、一歩前進!」……こう思えばいい。

まあ、タスクというのは、普段やっていることではなくて、やるのがちょっとしんどいことかな。けど、やるのがちょっとしんどいことは、ひとによって違うし、同じ人でも状態によって違う。だから、気分次第で、なにをタスクと考えるか変えてしまっていい。それじゃ、意味がないのではと思うかもしれないけど、それだから、意味がある。

書き出す必要もない。ただ、思えば、よい。「今日も一歩進んだ」と思えればいい。まあ、その人にとって、ちょっと大変なことを、タスクとして考えるのだけど、今日は、料理をタスクに昇格とか、そういうことでいい。「今日、ゴミ出しをした」……ということなら、ゴミ出しをタスクに昇格して、「今日は、ゴミ出しをしたからいいや」と思うことにする。

一日に、一個やればいい。一日に一歩すすめればいい。そういうふうに思う。……そうすると、わりとすすんだ感じがする。普段、普通にやっていることを、タスクとして考えると、また話が違ってくるんだよね。数が多すぎる。本人にとって、わりと大きなイベントなんだよね。一個として考えるのは。基本はそうなんだけど、ふだんやっていることをタスクとして考えてもいい。

けど、それは、他の人から見れば、小さなイベントだし、「そんなの毎日やっている」「そんなの一日に三回もやっている」と言いたくなるようなことなのだ。しかし、本人がどう感じるかの問題だから……。

しかも、本人の中に明確な基準があるわけではなくて、その日によって、……その日の体調で、基準が変わってくる。

「今日も一歩すすんだ」と思ったほうが、「今日もなにもしなかった」と思うより、精神的な健康を保てる。「今日は、ゴミ出しをしたからいいや」「今日は、医者に行ったからいいや」「今日は、買い物に行ったからいいや」……こう考えたほうが、「今日もなにもしなかった」と考えるより、気持ちがいい。気持ちが落ち着く。やっていることは同じなのに、一歩すすんだ!!と感じることができるのだ。だから、一日一個法としては、固定した明確な基準を作らないというのが、キモになる。本人が思うだけで、「本人が思ったことを紙に書き出す」必要がないわけだから、らくちん。

もちろん、「今日は休みの日だからゼロでいい」という考え方もある。自分が普段やっていることを、「タスクに昇格」しなくてもいい。それはまあ、考え方次第。「昨日、でかいこと(タスク)を二つやったから、今日はゼロでいいや」と考えることもできる。

2015年3月10日火曜日

探偵ナイトスクープ 53歳の引きこもりと引きこもり犬を視た 2 高齢引きこもりと眠り病


「とりあえず、働かないで53歳まで生きたんだから、強運の持ち主」
「とりあえず、働かないで53歳まで生きたんだから、勝ち組」

というような意見があるんだけど、

これは、どうかな。本人はけっこうつらいと思う。生きていればいいというわけではないと思う。(ま、そういうふうに言うと、「本当の貧困を知らない」とかいう人が出てくると思う。その人の気持ちもわかる。まあ、俺が言いたいのは、「強運の持ち主」とかいわれても、むなしいだろうなということだ。だいたい、「強運の持ち主」とか「勝ち組」とか言っている人は、おちょくっているだけなのかもしれないしな。これ、本気で言っている場合と、おちょくっていっている場合があると思う。まあ、おちょくって言っている場合のほうが多いのだろう。

これは、ちょっと、レッドゾーンだな。危険地帯。「本当の貧困を知っている人」であって、なおかつ「いまも苦しんでいる人」が「強運の持ち主」「勝ち組」と言っている場合は、相当に深い、いろいろな気持ちがあると思う。「本当の貧困を知らない人」は優越感にひたっておちょくっているだけだろう。

あとはなんだっけな。「学生時代と昨日のことがつながっている」というようなことを言っていたけど、これはある。昨日の感覚と、学生時代が終わった時の感覚が、くっついているんだよね。これはある。たぶん、高齢引きこもりは全部そういう感じだろう。アルバイトや会社に勤めていた期間があるなら、その記憶が、最後の記憶になって、ずっと続くというのは、あるな。

高齢引きこもりなんて、眠り病みたいなもので、一八歳の時に眠って起きてみたら、五〇歳になっていたというような感覚があると思う。これに関しては、実際に、眠り病になっていた人、が聞いたら、怒るかもしれないな。実際に、眠っているあいだに時間が過ぎてしまった場合と、意識があって、毎日普通に暮らしていて、年をとった人が同じであるはずがない。と。それは、正しい。同じじゃない。そのことに関する苦しみの程度がぜんぜん違うと思う。それから、実際に、眠り病になったひとは、「実際に起きて毎日暮らしていた人は、やろうと思えばいろいろなことができたはずだから、それを、しなかったくせに、そんなことを言うのはひどい」と思うかもしれない。

だから、まあ、「みたいなもの」と言っているんだけど、それでも、取り下げるべきか。眠り病患者の気持ちを考えると、取り下げるべきなのだろう。けど、本当にそれに近い部分がある。本当の眠り病患者からみれば、「ふざけるな」といいたいところはあるのだろうけど、遠くて近い部分がある。「若い時に眠って、起きてみたら、年をとってた」みたいな感じは、ある。もっとも、眠り病患者のそれとは、まったく比べ物にならないほど、「うすい感じ」だろうけど。たぶんだけど、高齢引きこもりの人はそういう感覚があるんじゃないかなぁと思う。「二〇歳の時に寝て、起きてみたら五〇歳だった」みたいな感覚。いずれにせよ、普通の人が経験する、恋愛結婚、就職、子供を持つというようなことを経験しないまま年をとってしまったという部分はあるので、かなり、むなしいと思う。まあ、「それは、あんたが選んだんでしょ」と言われれば、それまでのようなところもあるけど、「選んだわけじゃないんだよな」と言いたくなるところもある。俺の感じでいうと、(あくまで俺の感じだけど)……不可避的にそうならざるをえないような障害が生じたという感じだ。他に選択肢があったんだけど、それを、意図的に選ばなかったというような感じはない。

けど、まあ、気分によってはわりと深刻な問題なんだけど、(案外、高齢引きこもりの中核的な問題なんだけど)……外から見ると、「のほほんとしている」ようにみえる場合があるんだよな。けど、本当は「のほほんとしている」というような世界ではない。「お気楽」にみえる場合があるだろうけど、「お気楽」ではない。「お気楽」にみえて、本当に「お気楽」な場合も、あるかも知れない。それは、わからない。けど、本人は、たぶん、「お気楽」ではない。たぶん、「お気楽」にみえて、本当に「お気楽」な場合というのは、多数派ではないだろう。多数派は、「お気楽」にみえて、本当は、しんどい。


五三歳引きこもりさんには、好きな仕事を見つけて欲しい。……俺は、定職付く前に、リタイアメント。


ニート生活三二年ってテロップが出てるけど、高校卒業後に宅浪で引きこもったなら、三五年になるんだけどな。まあ、いいや。三二年なんだろう。なんかやってたのかな。







2015年3月7日土曜日

●探偵ナイトスクープ 53歳の引きこもりと引きこもり犬を視た 僕もちょっと感想を書いておこう その1

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探偵ナイトスクープ 2月20日 53歳の引きこもりと引きこもり犬
https://www.youtube.com/watch?v=DWbweRDiCqc

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五三歳引きこもりの人ですが、僕もちょっと感想を書いておこうと思います。

ちょっとだけね。なんか、色々考えたことがあったんだけど、やっぱり、文字で打ち込まなかったから、煙のように消えてしまった。

まず、「いい人そうな人だな」ということ。あとは、もし、僕にヘビメタ騒音がなくて引きこもっていたらあんな感じだったのかな?というようなことを考えた。

あと、スマホだけど、スマホは、本当に、引きこもっているいると必要がないものなのである。スマホだけではなくて、携帯電話全般が必要ないものなのである。だから、引きこもりにとって、「スマホ」のことは、「盲点」になる可能性がある。持っていれば、基本料金を払わなければならない。うちにいるのだから、外に出るときに持っていく、電話は必要がない。だいたい、誰もかけてこない。自分からかける用もない。だから、スマホのことを知らなかったからといって、全般的に時代に取り残されているということは、いえない。スマホは、盲点だ。

で、パソコンを使っているのかどうかわからないけど、パソコンがあれば、ブラウザ機能に関しては、スマホは必要がない。まあ、ネットにつながっているのかどうかわからないけど。

あとは、まあ、犬とのやりとりを見ると、いい人なんだろうなぁと。そう思った。けど、「犬に関係した仕事」ということで、あんまり、具体性がない。(売るための犬の飼育)とか、(ペットショップの従業員)とか、盲導犬の訓練師とか、そういうことには、向いていなさそうなのである。まあ、自営業で、犬の散歩をさせますとか、そういうことなら、向いてそうな気がする。けど、人に雇われるのは無理だろう。

長期引きこもりの場合、外で働くというのは、諦めた方がいい場合がある。うちで働くべきだ。引きこもり対策のゴールが「外で働くこと」ということになっているのだけど、うちで働くことに、方向を切り替えたほうが良い場合がある。


まあ、話しを元に戻して、

どうしても、働けないという深い挫折感みたいなものもあったはずなのだ。あれだけ短い尺に、引きこもりになった理由は、細かくは、のせられないので、見ている人は「なんか、ノホホンとしているあいだに三五年が経ったんだろうな」という印象を受けたのではないかと思う。たぶん!

なんていうのかな。あのビデオを見た場合、メインは犬との交流なので、引きこもっているあいだのことは、それほど詳しくは説明できないと思うが、たぶん!!!たぶん、イヌ好き五三歳ひきこもりさんにも、いろいろな葛藤があったはず。これは、わからないけど……。そういう葛藤についてはまったく語られなかったので、わからないけど、たぶん、あると思う。

少なくても俺はあった。どれだけ頑張っても、仕事が続かないのである。どれだけ頑張っても体力的に仕事が続かない。たとえ、週三回であっても、続かない。きちがいヘビメタ騒音に一五年間さらされたあとは、からだが弱くなっていて、どうしても、どうしても、働くことができない。だから、ものすごい、挫折感がある。言いがたい挫折感がある。けど、他人から見たら、「気楽に引きこもっているようにみえる」かもしれない。もし、自分があの人の立場だったら(インタビューを受けたら)あの尺の中で、深刻な挫折感を伝えることができるかわからない。ここで、一年ぐらいかけて長々と説明していることを、三分で説明するとなったら、やっぱり、深刻さとか、どうしようもない挫折感は伝わらないんじゃないかなと思う。だいたい、一年ぐらいかけて説明しても、伝わってねぇからな。伝わらない人には、伝わらないと思うけど、わりと頭のいい人にも、伝わってない可能性がだいぶある。まあ、ヘビメタ騒音を一五年間にわたって経験してもらわないとわからないのかもしれない。基本的に言って伝わらないのかもしれない。けど、「自分の場合」を言えば、「働けない」というものすごい挫折感がある。どうしても、できない。からだがどうしても、耐えられない。慣れない。もう、「死ぬか、通うか」になってしまうのである。ヘビメタ騒音の朝と同じ気持になってしまう。「もう、死ぬしかないか」と言う気持ちになる。それをおさえて、その日、通ったとしても、次の日も、また次の日も同じなのである。どこかで、体力的に回復して良くなるということがない。まったくない。だから、苦しい一日が、積み重なるだけなのである。それは、もう、きちがいヘビメタ騒音でさんざん経験したことだから、いい。きちがいヘビメタ騒音と「通わなければならない状況」にはさまれて、どれだけ俺が、苦しかったか。死にたい気持ちを、無理やりおさえつけて、何年間も毎日、通っていたか。やはり、これは、きちがいヘビメタ騒音七時間から一四時間という日々を一年ぐらい経験しないと、わからないのかもしれない。「ヘビメタ騒音なんていうのが、そんなのたいしたことなのかよ?」という質問をされたことがあるのだけど、ものすごく深刻で、大変なことなのだ。けど、わからないかもしれない。それは、言葉で表現しても、わからないかもしれない。わからない人にはわからないと思う。で、わからない人の割合は、けっこう高い。だから、ここでも、なんともいかんともしがたい気分になるのだけど、なんていうのかな……ヘビメタ騒音というハンディが、本当に、他の人にはわかりにくいんだよな。これ、ほんとうに困る。きちがい兄貴は、困らないだろうけど、俺は、もう常に困ってきた。困る。いまも困っている。

まあ、自分の話になってしまった。言いたいことは、「お気楽そうにみえたけど、本当はいろいろな気持ちがあったんじゃないかなぁ~~~~~」ということだ。






2015年1月25日日曜日

●四〇代の男性は、実際にフリーターとして働いていても、「無職性」が問われる。無職の現象学

どこかに一度書いたんだけど、どこに書いたか忘れてしまったので、もう一度、書いておく。それは、「無職かどうか」というようなことよりも、「ちゃんとしているかどうか」ということのほうが、実は重要なのだということだ。

実は、「無職」というのは、人によって、定義が違う言葉だ。アルバイトをしている人は、働いているので、無職ではないのだが、アルバイトをしている人の中には、自分は「無職だ」と思っている人がいる。アルバイターは、働いているので、無職ではない。

続きは、「無職の現象学」で・・・・・・





毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。