ヘビメタ騒音じゃなくても、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人は、絶対に、口がさけても「元気だといえば元気になる」というようなことは言わない。言霊を信じているという時点で、その人の経験した苦難というのは、ヘビメタ騒音相当ではないということがわかる。はっきりしていることだ。だから、言っていることで、その人がどのくらいの苦難を経験したかわかるのである。魔法的解決法が役に立たないことぐらい、ヘビメタ騒音相当の苦難を経験してきた人は、わかっている。体でわかっている。体でわかってないから、魔法的解決法が、さも、有効であるようなことを言う。あるいは、信じている。信じていなければ、ほかの人に助言できないだろう。もし、その人が、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人なのであれば、「そういうこと」を言われたとき、どんな気持ちになるか知っている。「そういうこと」というのは、魔法的解決法のことだ。そういうことじゃ、どうにもならないことを、体で知っている。
ヘビメタ騒音の苦難とヘビメタ騒音以外の苦難を分けたとする。その場合、たいてい、ぼく以外の人は、ヘビメタ騒音の苦難は経験してない。きちがい兄貴がやったほどのヘビメタ騒音という意味だ。普通の騒音じゃない。ヘビメタ騒音じゃなくても、その人がきらいな音ならいい。基本的に言って、家族がやって、ほかの家族がそれをゆるしてしまっているところがある。これも、異常なんだよ。こういうのは、ほかの人が認めたがらない。ほかの人は、正常な家族のもとに生まれて、正常な家族に囲まれて生活しているからだ。異常な家族がやることなんて、経験してないのである。異常な家族は、異常な脳みそを搭載しているから、四六時中、異常なことをするのである。それは、普通の範囲に入らないという意味でも、異常なのである。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音に対するこだわりと言ったらない。異常なこだわりをもっている。ヘビメタを絶対に、自分が鳴らしたい音で、鳴らしたい方法で鳴らすということに、いのちが掛かっている。だから、一秒でもゆずったら、自分が死んでしまうような感覚で、鳴らしている。絶対にゆずらないのである。そういう態度は、きちがい兄貴が、気ちがい兄貴である以上、自然に出てくる態度なんだよ。正常な人が、異常な人の態度をまねして、ふりをしているわけではない。ごく普通に、そういうふうになってしまう。ごく普通に、そういう状態でいる。そうしたら、それをかえることができないのである。けど、正常な家族に囲まれてすごしている人は、「自分のうちで」そういうことを経験してないんだよ。自分の人生のなかで、そういうことを経験してない。なので、「困難」と言っても、きちがい家族によってもたらされる困難と、ほかの困難はちがうと言える。けど、騒音なら騒音で、「にてはいる」。なので、「自分だって騒音ぐらいあった」というようなことを言う。けど、その人が、普通に働いて、言霊や引き寄せを信じている状態なら、やはり、その騒音は、うちのきちがいヘビメタ騒音とは、質がちがう騒音だと言うことができるのである。つまり、普通の騒音だ。きちがい家族による異常な騒音ではないのである。
きちがい兄貴は、スピーカーで鳴らすことにこだって、ヘッドホンをしてくれなった。これだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、弟がこまっているということを普通に認識できる兄貴だったら、ちがうのである。普通に、ヘッドホンをしてくれる。何十回かもめたら、本人は、ヘッドホンをしたくなくても、ヘッドホンをすることになる。家族が、おなじように被害を受けているわけだから、家族が応援してくれる。これ、言いたくはないけど、おかあさんもちょっと普通の人とはちがうのである。ともかく、兄貴に、おかあさんが注意しても、兄貴は、おかあさんが言うことをきかなかった。これも、かつて書いたから、ここでは省略する。おかあさんも、普通の人だったら、「たいへんだ」と思って、よその人に働きかけているはずなんだけど、横になって、「こまったこまった」と言っているだけだったのである。普通の母親だったら、長男が毎日あんな音で鳴らしていたら、怒る。怒って怒って怒って怒る。そして、どうしても、長男が言うことをきかないら、市の相談所とかそういうところに行って、ものすごい音で鳴らしているからこまっているということを言うはずだ。けど、おかあさんは、横になって「こまったこまった」と言っていただけなのである。そして、言いたくはないけど、おかあさんは、問題をかくそうとするところがある。よその人にきかれたとき、すっとぼけてしまうようなところがある。ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、けっきょく、自分の意地をとおすということになる。なお、きちがい兄貴脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、通したことになってないのである。きちがい兄貴の脳みそのなかでは、自分はなにもやってないという認知が生じている状態とおなじなのである。これもこまたっことなんだけど、そうなのだ。そして、家族に、ふたりそういう人間がいるということが、ほかの人が考えている以上に、きちがい兄貴が鳴らし続けるという状態に影響をあたえる。これ、ほかの人は、そういう状態で暮らしている話ではないので、根本から、わからないのだ。なので、こういう部分に関しても「普通に」誤解がしょうじる。しょうじるんだよ。しょうじないわけがないだろ。そして、やっている本人ふたりは、赤の他人よりも、自分のその状態について、知らんぷりなのである。認識してない。あかの他人よりも、自分がきちがい的な意地で押し通しているということについて無頓着なのである。あかの他人よりも、自分がやっていることがわかってない状態なのである。じゃあ、言えばわかるのかというと、わからないのだ。これが、へんな状態なんだけど、そういう状態で暮らしている。これ、脳みその構造がかわらないと、かわらないんだよ。だから、普通にやりきるし、普通にやりきったということを、普通に無視してしまう。本人の主観としては「そんなことは一度もやっていない」という主観に近い主観なのである。だから、「きちがいだ」と言っているわけ。そういう部分があるから、きちがい兄貴と言わないと、意味が通じないのだ。どうしてなら、普通の兄貴がそんなことをするわけがないので、普通の兄貴がそういうことをしたということになると、へんな印象をあたえる文になってしまうのである。
ともかく、言霊は正しいと思っている人が、どれだけ「俺だって困難を経験した」と言っても、その困難は、たいした困難じゃないということが言える。どうしてかというと、ほんとうにヘビメタ騒音相当の困難を経験したなら、「言霊は正しい」とは言えなくなるからだ。「言霊は正しい」と言える状態を維持している以上、ヘビメタ騒音相当の困難は経験してないと言える。どれだけ言霊的な解決法をこころみても、まったく無駄だということが、わかってしまう。わかってないのであれば、それは、ヘビメタ騒音相当のくるしみではないから、わかってないということになる。「言霊はまったくだめだ」ということをいやというほど思い知らされることになる。思い知らされてないのであれば、それは、そういう困難でしかない。それは、そういうくるしみでしかない。軽い。浅い。ぜーーぜん、ちがう。ちがうのでちがう。そんなこと、言えるわけがないだろ。「言霊は正しい」なんて言えなくなるんだよ。そういう、長い長い時間があるんだよ。長い長い時間の経験があるんだよ。重たい。深い。
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きちがい兄貴は、きちがい親父と同じタイプの脳みそを搭載しているので、きかない。絶対にきかない。俺が言っても、おかあさんが言っても、きかない。きかない。こんなの、ちゃんときいてくれるなら、苦労はしてない。こんなことになってない。どうして、そういうことを無視して、普通の基準でものを考えて、まちがったことを言ってくるんだ?
まちがっている。
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ヘビメタ騒音を経験してなくても、ヘビメタ騒音相当の困難を経験した人は、わかっている。だから、ヘビメタ騒音を経験してない人のなかにも、二タイプ、いるということになる。ヘビメタ騒音を経験してなくても、わかっている人と、ヘビメタ騒音を経験してないし、まったくわかってないやつと、二タイプいる。わかってないやつは、みんな、えらそうなことを言う。「自分は平気だ(自分なら、鳴らされても平気だっただろう)」という前提で、ものを言う。ヘビメタ騒音なんてたいしたことがないという前提でものを言う。こういうやつらは、思考力のかけらもない。「おまえ、自分がどういう前提でものを言っているのか、わかっているのか」と言いたくなる。
こういうやつらに、下に見られ、バカにされる俺の気にもなってみろ。ほんとうに、そういうことも、全部、きちがい兄貴がきちがい的な意地で鳴らしたことから、はじまっているのだ。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、一回言ったら、しずかにしてくれる普通の兄貴だったら、絶対にこんなことにはなってない。
こういうやつらは絶対に、きちがい兄貴のことはせめない。よわっている弟のほうをせめる。できなくなったなら、できなくなったやつが悪いと思っている。こういうやつが言う、道徳、善、神、宇宙の絶対法則……。あほらしい。