2023年8月7日月曜日

幼児のほうが、怒られないようにしようと思っても、むりなのである

なんか、楽しいことを考えようとしても……。

きちがいが現前しているということが重要。きちがいが、襲い掛かってくるということが重要。きちがいが、きちがい的な理由で迷惑行為をしはじめるということが、重要。

きちがいが、きちがい的な理由で、迷惑行為をはじめたら、どんだけ「やめろ」と言っても、やめてくれないということが重要。

やめない理由もきちがい的な理由だ。

やめずにやりきったのに、やってないことになっているという感覚と、その感覚にもとづいた態度も異常だ。そういう異常なことが、常に成り立っているのである。どうしてかというと、きちがいがきちがい的な脳みそを搭載しているからである。

そして、その脳みそは、自分にとってだけ、都合がいいようにできているのである。自分がきちがい的な意地でやった、きちがい行為は、「やってないことになっている」のである。

これだけでも、普通の人とはちがう。

普通の人は、知らないふりをすることはできても、ほんとうに知らない状態になれるわけではない。ところが、きちがい家族だと、ほんとうに知らないのである。ほんとうに知らない状態なのである。こんなのは、ない。

きちがい親父は、きちがい的な理由で、怒り狂って、ぶちあたってきた。

これは、容赦がない。

相手が、小さければ小さいほど、安心して、自分の怒りを、その小さなものに、ぶちまけることができるのだ。相手が、小さければ小さいほど、安心して、相手を攻撃することができるのだ。

幼児なんて、恰好の攻撃対象だよ。

手加減をするはずがない。

その場合、きちがい親父が、人間の「ひながた」になってしまうのである。幼児側の人がもつ、「人間のひな型」になってしまうのである。

たとえば、人の気持ちを考えることが、生きていく上では、重要なのだけど、きちがいがぶちあたってくれば、きちがいの気持ちを必死になって考えることになる。幼児期にこういう経験がないやつには、絶対にわからない。

幼児期にこういう経験んがないやつは、たまたま、親が正常だっただけだ。

別に、異常なきちがいにやられていたにもかかわらず、人間のひな型が、異常なものにならなかったというわけではないのだ。

きちがいは、「気にしてほしく」て爆発しているのである。

そして、爆発することが決まっているのである。

うちのきちがい親父の場合、きちがい親父が自分の幼児に、怒り狂っていたわけだけど、どれだけ怒り狂っても、きちがい的な怒りがおさまることがないのである。どれだけ、目の前の幼児を攻撃しても、どこまでもどこまでも腹がたって、怒りが「解消」することがないのである。

どうしてかというと、怒りが……そこで爆発している怒りは、本来は、自分の育ての親に対する怒りだから、どれだけ、幼児に対して爆発しても、おさまることがなかったのである。

その場合、幼児のほうが、怒られないようにしようと思っても、むりなのである。怒る理由がなくても……その場に怒る理由がなくても……安心して怒り狂える対象に怒りをぶつけ続けるわけだから、幼児側の人にとっては、怒られないということは可能ではないのである。

そういう、きちがい的な親の気持ちが、人間の気持ちのひな型になってしまうのである。幼児が「人間の気持ち」というものを考えるときの、ひな形が、狂った人間の気持ちなのである。きちがい的な理由で、ささいなことで、怒り狂っていた「親」にやられた人は、その親の精神構造をもとにして、人間の精神構造を考えるようになるのである。きちがい的な理由で怒っているきちがい的な親の基準で、物事について考えるようになるのである。善悪について考えるようになるのである。「相手の気持ちを気にするな」というほうがむりなのである。

そして肝心なのは、「防衛」に失敗するということだ。どうして、失敗するかというと、親がきちがいだからだ。小さな理由で怒るという場合、その小さな理由のことを考えて、そういう小さなことが発生しないようにすればよいのだけど、すべてのことで、怒り狂うということになると、どれだけ、小さな理由に対処して、小さな理由が発生しないようにしても、怒り狂われるということは決まっているので、必然的に、「防衛」に失敗するのである。

この場合の「防衛」というのは、起こらないようにするということだ。理由がある場合、理由が発生しないようにすれば、怒られないのである。その理由では怒られない。小さな理由が一〇〇〇〇個あるのであれば、一〇〇〇〇個の理由に対処すれば、その小さな理由(群)では怒られないことになる。

その場合は、「防衛」に成功したということになる。怒られなくなるのだから、防衛に成功したということになる。

しかし、きちがい的な親が気ちがいなので、本来、怒る理由がまったくないところでも、発狂して怒るのである。その場合、それがそうであるということについて怒っているわけだから、根源的な理由を解消することにはいたらないのである。

きちがい的な親というのは「対処不可能性」をおしつけている。「対処不可能性」をともなった経験(実際の出来事)というのは、その人の意欲に影響をあたえる。

話がずれるけど、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲がでてくると言うことではないのである。「意欲が出てきた」と言う経験よりも、毎日の経験のほうが影響力がでかいのである。そして、「意欲が出てきた」と言うという経験は、「意欲が出てきた」と言っても、意欲がでてこないという、経験につながるのである。こっちが、メインになってしまうのである。言霊的な解決法は、まったく意味がないのである。とくに、きちがい的な親にやられている人間にとっては意味がない。きちがい的な親に「対処不可能性」を感じる出来事を、毎日毎日毎日、繰り返し、繰り返し、おしつけられている側の人間にとっては意味がないのである。

ところが、きちがい的な親にやられてない人間が、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲が出てくるというようなことを言う。これは、そういうことを言う人間が、きちがい的な親にやらなかったから、言えることだ。そして、幼児的万能感が残っている幼稚な人だから言えることだ。

意識的な命令よりも、実際に繰り返し繰り返し経験したことのほうが重要なのだ。なんで、それがわからないのか? どうして、杓子定規に、どんな場合でも、言霊は有効だと考えるのか? 意識的な命令というのは、意識的な自分が、自分に対して命令するというとだ。

言霊の場合は、言葉で命令するのである。思霊の場合は、思うことで命令するのである。けど、この場合の「思う」ということは、けっきょく、「言葉で思うこと」なので、言葉で命令するということになる。

なになにのほうが有益だから、なになにと思うように自分に命令しているのだ。「なになにのほうが、自分にとって利益があると思っているから、そうなるように、自分が自分のこころに対して命令をするのだ。このやり方は、合理的に思えるかもしれないが……すくなくても、言霊信者にしてみればじゅうぶんに合理的なやり方に思えるのだけど、実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間にとっては、合理的なやり方ではない。 

ところが、言霊主義者が考える「人間」のなかに「実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間」も含まれているのだ。なので、食い違いがしょうじる。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。