ヘビメタ騒音なしで暮らしたかった。ヘビメタ騒音なしの、若い時期がほしい。ほんーーんとう、ほかの人はわからないと思うけど、ヘビメタ騒音が生活にしみわたって、つねにくるしいのである。あの眠れなさと、朝の緊張状態を毎日経験したことがないやつが、語るくるしさなんて、たいしたことがない……。そういうふうに言いたくなるような状態がずっと続いた。やっているほうは、まったくなにも感じないんだよ。言われたら、怒るだけだからな。「やめろ」と言われたら、目を三角にして、脂汗をかいて、からだを真っ赤にして、きちがい的な形相で、続けてしまう。あのとき、あのとき殺さなければ、やめさせることができない。きちがい親父のトイレ事件とおなじなんだよ。「ちょっとだけどいて」と言われたら、発狂してどけない。けど、まるで気にしてない。相手がこまったということは、まったく無視しているのである。無視するというのは、ちょっと語弊がある。というのは、一度意識にのぼったことを無視するという意味になってしまうからだ。どれだけ言っても、最初から、最後まで、相手が自分の行為でこまったということは、意識にのぼらないことなのである。相手がどれだけ明確に、言っても、「わからない」ことなのである。これ、認識する前に、きちがい的に怒り狂って「はねのけている」。はねのけたら、関係がないんだよ。
きちがい兄貴の場合も「しずかにしてくれ」と言われたら、スイッチが入ってしまうんだよ。やった「責任」はあるぞ。実際、本人だって、「よそ」じゃやれないようなことなのだから……。よその人のことは、気にするんだよ。これも、きちがいおやじとおなじ態度だ。よその人に対する態度と、うちの人に対する態度がちがう。よその人に対する基準と、うちの人に対する基準がちがう。そして、これが肝要なことなのだけど、本人はまったくそういうふうに思ってない。二重基準が成り立っているとは思ってないのだ。よその人に対する態度とうちの人に対する態度がちがうと思ってないのだ。ごく自然に、うちの人には、きちがい的な方法で迷惑をかける。迷惑をかけた「責任」はある。