般化についてちょっとだけ説明をしておこう。たとえば、ピッというブザーの音を聞かせたあと、ネズミに餌をやると、ピッというブザーの音に反応するようになる。そのあと、プッというブザーの音を聞かせても同様の反応が起こるようになる。ピッというブザーの音とプッというブザーの音は、ちがう音なのだけど、両方とも、短いブザーの音だという点では、おなじなのである。ピッという音と、プッという音はちがう刺激なのだけど、似たような刺激なので、プッという音にも、ピッという音で形成された反応が起こるようになる。これが般化だ。また、プッという音のあとには、エサがでてこないということを何回か繰り返すと、プッというあとの音には、ピッという音で形成された反応が起こらなくなる。これが、弁別だ。ピッという音とプッという音は、ちがう音なのだけど、どちらも、短い音であるという点では同じだ。とりあえず、短い音であるという属性をもっているという表現することにする。当然、どちらも音であるという属性をもっている。ブザーの音だという属性もある。この、属性うんぬんという話は、ぼくが、これ以降の話をするために、つけたした話だ。般化と弁別については、ここでは、ここまでの話とする。
で、ぼくがなにを言いたいのかというと、うちのきちがい親父は、うちのきちがい親父なのだけど、男性であるという属性をもってるし、大人であるという属性ももっている。当時、中年だったので、大人という属性のなかにある、中年という属性をもっている。きちがい親父は、個別のきちがい親父なんだよ。けど、きちがい親父が、こっちのいろいろなことに腹をたてて、ぶつかってくるということが繰り返されると、大人というのは、そういうものなのではないかという気持がしょうじる。きちがい親父は、個別のきちがい親父なのだけど、中年の男性は、そういう性格があるのではないかという「うたがい」がしょうじるのである。かりに、あとで、個別の人は個別の性格をもっているということを学習したとしても、それは、このうたがいを完全に打ち消すようなものにはならないのである。つまり、しんの部分にきちがい親父のイメージが、中年男性のイメージとして残ってしまうのである。人というところまで抽象化すると、芯の部分にきちがい親父のイメージが、人間のイメージとして残ってしまうのである。
たとえば、きちがい親父が帰ってきそうな時間になると、ぼくは、全身に蕁麻疹ができた。これ、雰囲気としてあるのである。帰ってくる時間というのは、特に決まっているわけではなくて、帰ってきそうな時間がだいたい、決まっているだけなのである。で、蕁麻疹のことで病院に行ったとする。その病院の医師が、中年の男性だったのだけど、やさしい性格で、きちがい的な理由で怒り狂う人ではないということがわかった。なので、きちがい親父とこの医師は性格がちがうということがわかったわけだ。しかし、見ず知らずの中年男性の性格を推し量るイメージ(基準)として、きちがい親父のイメージが残っているのである。やさしい医者との出会いによって、そのイメージが完全に消えるかというとそうではないのである。