きちがい的な親にやられるというのは、きちがい的ではない親にやられるのとは、ちょっとちがうのである。そして、きちがい的な親のほうが人数が少ないために、きちがい的ではない親に育てられた者たちから、悪く言われるようになるのである。
たとえば、きちがい的な親に、『きちがい的な理由で』怒り狂われた子供というのは、いつもおどおどしているような子供になるのである。どうしてかというと、四六時中、「気をはって」いなければならないからだ。そして、どれだけ「気をはって」いても、攻撃がやむことがないのである。三六〇度から、攻撃をうけるのである。その攻撃は、その子供が(想像のなかで)勝手につくっている攻撃じゃない。実際に、三六〇度、どの方向からも、きちがい的な親と一緒にいれば、攻撃をうけるということになる。きちがい的な親は、きちがい的な理由で怒る。別に、子供側の人間が、悪いことをしたわけではないのである。これを、理由もなく怒ると表現するとなると、まさしく、きちがい的な親は、理由もなく怒っているのである。三六〇度、どの方向からも、攻撃をうけるとなると、攻撃に対して身構えた状態になる。これが、気をはっている状態なのである。三六〇度、やりをもった敵に囲まれて、やりをぶさぶさと刺されている状態なのである。なので、そういうふうになるのには、理由がある。きちがい的な親と一緒にいると言うことは、きちがい的なやくざと一緒にいるというような状態なのである。わけのわからないことで、いきなり、攻撃をうけるという状態なのである。当然、気をはって、身構えた状態になる。こういう時間が長く続くと、他者といるときは、安心ができない状態になるのである。きちがい的な親は、きちがい的な親であって、他者の代表ではない。しかし、人間の場合は、脳みそが正常なら、「般化」という機能が働くのである。だから、特定の「人物」が「人間」の代表として、意識されるようになるのである。きちがい的な理由で怒る親にやられた人間は、他者というのは、そういう存在だと、かなり深いレベルで思うようになるのである。これは、強迫神経症を引き起こすような無意識ではないけど、かなり、無意識的なレベルで、「人間」というものが、「理由もなく、攻撃してくる存在だ」という学習が生じてしまうのである。たしかに、きちがい的親はきちがい的な親であって、やさしい人間もいるのである。そして、やさしい人間は、理由もなく攻撃をしてくると言うことがない。なので、あとで、やさしい人間といるときは、別に気をはらなくてもいいということを学習することもある。その場合、きちがい的な親とそのやさしい人間を区別するようになるのである。これが、弁別だ。弁別という機能もあるので、きちがい的な親と、だれか他者はちがう存在だということを学習することもできるのである。ただ、親のほうがちいさいときから、いっしょにいるという問題がある。核の部分というのは、きちがい的な他者なのだ。きちがい的な親にやられた人間の場合、ものすごく根本的なところで、きちがい的な親が「人間存在」の「元型」になる。