たとえばの話なんだけど、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」というような解決法を提示されること自体が、不愉快なことなんだよ。「きちがい家族によるヘビメタ騒音で、楽しめなくなった」と言っているだろ。自分の家族が、きちがい家族ではなかった人間……そういう人間は、当然、きちがい家族がきちがいヘビメタを鳴らすということもない。きちがい的にでかい音で、長時間、長期間にわたって鳴らすということだ。そして、「鳴らすな」ということを言われれば、腹をたてて、きちがい的にこだわってこだわって、鳴らした……。そういうときに、くるしいのである。楽しくないのである。そういう時間が、楽しく感じられない構造をつくりだすのである。そういう、実際の経験が、楽しく感じられない「脳みそ」「こころ」をつくりだすのである。やられてないやつが、中立的な状態で、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」ということではないのである。そういうやつには、きちがい家族がいない。きちがい家族が毎日、きちがい行為をするということがなかった。人生のなかでなかった。だから、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」という状態を維持できているだけなのである。そして、こういう状態のちがいを無視して、ただ単に、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」「これは、真実だ」と言う。状態のちがいを無視するな。けど、そういう、普通の人に「状態のちがいを無視するな」と言っても、むだなのである。そいつは、きちがい家族のもとに生まれたわけじゃない。きちがい家族が、どういう状態で、きちがい行為をするの、感覚的にわかってない。わかってないし、人生のなかでそういうことがしょうじなかったので、そういうことが、はなから、問題になっていないのである。その結果、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」ような状態を維持できた。維持できたというだけの話だ。だから、きちがい家族のもとに生まれた人と、きちがい家族のもとに生まれなかった人では、基本的な経験がちがう。基本的な経験がちがうということは、基本的な経験が生み出す、基本的な感覚値がちがうということだ。この感覚のちがいは、でかい。話の根底にあるものだ。けど、その根底にあるものを無視して、「XをすればYになる」というようことを言う人が多い。「楽しいと言えば、楽しくなる」というのも、そういう構造をもった言葉のひとつだ。