けっきょく、ヘビメタ騒音のことは、ほかの人にはわからない。ほかの人には、一日の重みですらわからない。いまでも、ときどき、中学時代の会話が思い浮かぶときがあるんだけど、ヘビメタ騒音のことを言わないで人とつきあっている場合、やっぱり、ほかの人は、いろいろと誤解をするんだよ。けど、言ったら、誤解がとけるかというとそうでもないんだよ。きちがい兄貴の性格や、きちがいヘビメタ騒音のひどさが、ほかの人にはわからない。正常な家族のもとに生まれた人には、きちがい家族の異常さがわからない。きちがい兄貴が、すっとぼけているというのがいやなんだよな。絶対の意地でやるのに、まったくやってないつもりでいるんだよね。これが、きちがい親父とおなじなんだよ。そして、ぼくの一日というのは、きちがいヘビメタ騒音で埋まっている。なにもしてないつもりのまま、俺の一日を粉砕する。きちがい兄貴は、きちがいおやじとおなじ頭の構造をもっているので、気にしない。その気にしないというのは、「やってない」場合の「気にしない」とおなじだ。一日に、ヘビメタを一分も鳴らしてない状態とおなじ状態なのである。一日に、一三時間きちがいヘビメタを、普通の家では、一分間だって鳴らせない音のでかさで鳴らしても、一分も鳴らてない状態とおなじなのである。意識、感覚、認知がおなじなのである。こんなバカなことはないけど、そういうバカなことが、きちがい兄貴の頭の中で、普通に!成り立つ。本人の態度というのは、「鳴らすな」と言われたから、一糞も鳴らしてない場合の態度とおなじなのである。そういう態度で暮らしているのである。絶対に、一分もゆずらないで、何時間も何時間も、自分が鳴らしたい音で鳴らしているのに、きちがいだから、なにを言われても「鳴らしてない」と思っているときの態度が続く。こんなのは、ない。普通の人だったら、何時間も何時間も鳴らしているのに、一分も鳴らしてないという態度をとる場合、どうしても、意識する。芝居をすることになる。意識的に芝居をすることにならざるをえない。ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、普通に「鳴らしてない」という態度で暮らしている。これが、頭にくる。きちがい的な意地でやっていることを、完全に無視して、やってないつもりでいる。