「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」ということについて考えみよう。問題を起こしている宗教団体の教えにも、「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」という教えがあるかもしれない。けど、「親切にする」ということの抽象度が高すぎるのである。そして、「親切にする」という行為が一意に決まるわけではないのである。なので、本人は親切にしたつもりなのだけど、逆に恨まれるというようなことが発生する。親切にしようと思ってやったことなのに、「ありがた迷惑だ」と迷惑がられることがある。その場面の状態というのが、めちゃくちゃに、複雑なのだ。いつも、理想的な状態が成り立っているわけではない。ところが、抽象度が高い言葉の場合には、条件が無視されている。だれがだれに、どういう状態で、どういう行為をするのかということによって、じつは、親切にするという行為の質が決まってくる。状態に埋め込まれた現実しかないのである。けど、頭のなかには、「親切にする」ということにかんするイメージがある。そのイメージに合致したことをすることが「親切にする」ということなのである。ある人の頭のなかに、「親切にする」という行為はいかなる行為かということにかんする「ちゅうょう的な」イメージがあるのである。だから、その人にとっては、そのイメージに合致したことが親切にすることなのである。けど、条件によっては、それが、親切にしたことにならない。逆に、条件によっては、迷惑をかけたということになる。
たとえば、条件を無視して、自分のなかにある「親切な行為」を相手にやってやれば、それは、相手に親切にしたということになると思っている人がいるとする。その人にとっては、その人のなかにある親切な行為に合致した行為をすれば、実際に親切にしたことになるのである。けど、相手の状態がわからない人だと、相手が、「そんなことはやらなくてもいい」「逆に迷惑をする」と言っても、それは、無視してしまうのである。自分のなかにある「親切な行為」にこだわって、親切にしているわけだから、自分のなかでは、それは「親切な行為」であるに決まっているのだ。「いやがるひと」「迷惑に感じする人」がいるとは思えない。なので、そういう現実は無視してしまうのである。
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何度も言うけど、悪いことをしている宗教団体の教えにも、いい内容があると思っている人がいるかもしれないけど、その「いい内容」というのは、じつは、悪い行為に寄与している確率が非常に高い。
それに、たとえば、 「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」という単純で正しそうに見える、「教え」をその宗教団体がもっていたとして、その「教え」が正しいのかどうかわからないところがある。
まあ、どれだけ言ってもむだだろうけどな。
『幸福のツボ』を売ることは、相手を幸福にすることだからいいことだと思っているなら、これだって、「親切な行為」の中に含まれてしまうのである。その宗教に勧誘することは、相手を「善に目覚めさせること」だから、いいことだということになっているとする。けど、勧誘されたほうが、いいことをされた(親切にされた)と思うかどうかはわからない。
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単純な意味で「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」というような「教え」は、ほんとう、その宗教団体に属さないとわからないことなのかという問題もある。そんなのは、いくらだって、言われている。別に宗教団体の教えのなかになくても、普通に、言われていることだ。小さいときから、普通に言われていることでしょ。けど、ここで指摘したように、じつは、いろいろな問題がある。「単純だから正しい」とは言えない。
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不利な条件で生活してきた人に「過去は関係がない」「今現在に集中すればいい」「つらいと言うからつらくなる。楽しいと言えば楽しくなる」「できないと言うから、できない。できると言えばできる」などと助言することが、親切な行為なのかどうかということだ。言っているやつは、親切にしてやったと思っているかもしれない。