たとえばの話だけど、ブラック社長には、責任がある。限定責任だ。名前だけ店長に、時間外の仕事をおしつけて、それに相当する賃金を払わなかった。これは、あきらかな犯罪だ。
そういうことを、ブラック社長が、自分で思いついて、自分の意思でそうしたのだから、そうしたということについて、ブラック社長には限定責任がある。
相手が、つかれはててくるしい生活をしているのは、ブラック社長が社長の権限を利用して、そういう生活を相手におしつけたからだ。
ところが、世間の人は、ブラック社長の限定責任を問わず、やられたほうの無限責任を問うわけ。
ようするに、したがってしまった名前だけ店長が、したがってしまったからダメなんだということを言うわけ。自分がやったことだから、自分の責任だと「自己責任論」を振り回すわけ。
やられたほうにだけ、そういうことを言って、やったほう……限定責任があるほうの責任はまったく問わないわけ。
こういう「世間の人」が多い。こいつらは、ブラック社長のような権限はないけど、なかみは、ブラック社長なのである。
自己責任、自己責任と言いながら、自分の「限定責任」ですら、問わないのだ。
これ、言いたくないけど、たとえば、悪の宗教に所属している人がいたとする。この人が、強引に、ある人を、その宗教に引きずり込んだとする。猛烈に、説得して、悪の宗教団体の一員にしたのだ。
これは、その説得をした人の、意志によるものだから、限定責任が発生している。けど、そういう限定責任は問わずに、けっきょく、説得されて悪の宗教に入った人の「自己責任」を問うのである。
たしかに、悪の宗教に入ってしまったのだから、責任はある。けど、説得したほうの責任は問わずに、説得されてしたがってしまった人の責任だけを問うのは、まちがっている。